家 族
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」。 エフェソ書5.21-6.4

今日、家族は実にさまざまな形をとるようになってきました。そうした中、聖書が語る家庭の在り方は古い教えのように聞こえます。奴隷と主人という関係が家庭を構成していたことからも分かります。しかしそうした時代的な制約を受けた部分を取り除きながら、どの時代にも、永遠に真理としてわたしたちを導く教えをここから聞くことはできます。
カール・バルトという神学者がここを取り上げ、「交わりにおける自由」という項目の中で、三つの関係を述べています。一つは男と女、二つめは親と子、そして近い者と遠い者で、この三つめは家庭の外の地域社会、民族、国家、世界という方向づけで捉えてよいと思います。その全体の関係を指してこう述べています。「創造者なる神は、人間をご自身へと召されるとき、またこの人間をその隣人に向かわせられる。神の戒めは、特別に次のように言う―人間は、男と女の出会いにおいて、親と子の関係において、近くの者から遠くの者への道の上で、他者を自分自身と共に、また他者と共に自分自身を、肯定し、尊敬し、喜び受け入れるべきである」。
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(21節)、これはいかなる人間関係においても、一番基本となるものです。その上で、夫、妻、親子の関係が一つ一つ述べられています。
このように家族関係の在り方が示されているのですが、今日では一口に家族といっても、そこにはさまざまな形があります。そのあたりを念頭においてか、政府は最近「こども家庭庁」なるものを創設しました。何をやるのかよく分かりませんが。今日における家族という場合、そこでは従来の家
族というだけでなく、結婚しない生き方も増えています。また男と女というつながりだけではなく、同性愛者、最近はLGBTQという言葉をよく目にするようになりましたが、いわゆる性的少数者の生活も生まれています。そうした中、同性どうしでパートナーを組む人々も多くなっています。
いずれにせよ、どのような人と、どのような形態で共に暮らすとしても、家族こそ一番身近な人間関係が繰り広げられる場所であり、自分の最も近い隣人のいる場所に変わりありません。いくら社会に向かって声高に平和や愛を叫んでも、この最も身近な一人ひとりとの関係がうまく築かれていないならばどうなのでしょうか。
現代では上記のような社会情勢も関係していると思いますが、結婚式がずいぶん少なくなりました。わたしはこれまで結婚式の式辞でエフェソ書に近いコロサイ書をよく使ってきました。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」(3.12-15)。どのような家庭であっても、どのような交わりであっても、この言葉はわたしたちを慰め、導いてくれるのではないでしょうか。(高橋牧師記)

