足の塵を払い落とす

 

 「それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」。   使徒言行録13.44-52

 イエス・キリストの福音は新鮮で力強かったゆえ、アンティオキアの人々には好意的に受け止められました。ただこの町に住んでいたユダヤ人たちはその群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしり、パウロの話すことに反対するようになりました。いったい何をねたんだのだろうか。

 福音は信じるならば誰にも分け隔てなく救いを与えるものでした。ユダヤ人はもちろん、今パウロの前にいる多くの異邦人も同様です。しかしユダヤ人には誤ったプライドがありました。自分たちにはモーセの律法がある。旧約以来神に選ばれた契約の民でもある。そうした自分たちと同じように、キリストを信じる者は皆救われるとの豊かなメッセージが語られるのを聞いて、自分たちが出し抜かれたと思ったようです。キリストの救いにより異邦人など信じる者にも同じような恵みが与えられたのですが、何か自分たちが粗末にされたと誤解したのです。決してユダヤ人に対する神の愛が減少したわけではないのに。

 詩画集で有名な星野富弘さんが次のようなことを告白しています。あるとき一人の中学生がスキーで転倒し自分と同じように手足がマヒして入院してきました。彼は少年がどうしてこんなつらい思いをしなければならないかと、自分のこと以上に腹立たしく思い、心から回復を祈りました。やがて少年の手足が少しずつ動き出しました。ところがそれを喜びつつ、他方では自分の心の中にどうしようもない淋しさが芽生えてきたのです。それはねたみのような、小さなかげりでした。

 福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも救いをもたらす神の力です。それは信じる者がすべて救われるというものであって、決してユダヤ人を見下しているわけではありません。もちろん異邦人をことさら持ち上げているわけでもありません。しかしあるユダヤ人にはそのように聞こえませんでした。

 彼らは町のおもだった人々を扇動して、パウロたちを迫害し、この地方からの追い出しをはかりました。そこでパウロたちは「足の塵を払い落として」この町を去って行きました。面白い動作です。これはもうこの町とは関係ないという絶縁を表したものです。

 福音の言葉が語られるとき、いつも大きく二つの反応が生まれます。一つはこの追い出しをはかったユダヤ人や町のおもだった人々のような拒否反応、そこまでいかなくともほとんど聖書の言葉に心動かされない人々も含まれます。他方、そこには必ず信仰者が生まれます。たとえその人数は少なくても、蒔かれた御言葉がむなしくなることはなく実を結びます。この町でもそうでした。

 使徒たちは自分たちが追い出されるといった迫害にあっても、勇気や希望を失うことなく、大胆に御言葉を語り、粘り強く証しをしました。喜びと聖霊に満たされていたからです。わたしたちにもさまざまな心配事があり、生活がなかなか落ち着かず伝道どころではないこともあります。そうであってもキリストによる信仰の導きは変わることがありません。いかなる災いが襲おうとも、わたしたちの心は平和と聖霊による喜びにいつも満たされているのです。(高橋牧師記)