人に取り入るのではなく

 

「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」。  ガラテヤ書1.1-10

 使徒パウロによって書かれた数々の手紙の中で、ガラテヤ書は特に論争的であり、厳しい口調で書かれていることを特徴としています。「わたしはあきれ果てています」と語るとおりで、理由が二つ述べられています。その一つは初めの信仰からこんなにも早く離れてしまったからです。洗礼を受けた当初は熱心だったかもしれませんが、その信仰が定着しない、教会生活が続かなかったのです。

 それは今日でも同じかもしれません。教団全体の統計を見ると、1年間に洗礼を受ける人が一番多かったのは1947年から1951年にかけての終戦直後でした。この期間は1年に受洗者が1万人を超えています。その後は少しずつ減っていき、近年では千人台を推移しています。一方受洗者は低迷していても、礼拝出席者数はそれほど減少しておらず、かえって年間1万人の受洗者を出したキリスト教ブームのときより増えているくらいです。それは新しく教会の仲間に加わった人々の教会生活が比較的安定しているということです。他方キリスト教ブームの時代は、入る人も多かったが出ていく人も同じくらい多くいました。「教会の入口から列をなして人が入っていくのに、それとほとんど同じ数の人々が教会の裏口から去っていった」という状況だったのです。

パウロをあきれ果てさせたのは、信仰生活の短さだけではありませんでした。人々が迷い込んだ信仰の内容においても、あきれ果てさせたからです。それを「ほかの福音」とパウロは呼び、「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」と述べています。具体的にはあとからユダヤ人クリスチャンで入ってきてガラテヤ人を惑わしたのでした。

 それは現代にもあてはまります。今問題となっている統一教会は聖書の一部だけをつまみ食いして、自分たちに都合のよいように解釈しています。罪、サタン、救いなどなど。そして信者にそれを教えて恐怖心をあおり、お金を巻き上げたり人々を利用する。ここにも人間の迷いの弱さがあります。

 人を見る以上に、神を見ることは大切です。これは誰に喜ばれようとしているか。また誰に取り入ろうとしているかにつながっていく問題でもあります。「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」。パウロも以前は逆の方向を向いていました。彼は神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていたからです。それは神でなく人々の気に入る歩みでした。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」とイエスが言われました(ルカ16.15)。パウロもここで「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」と言い切っています。そのようにこの世から出たもの、人間から出たものではなく、神から出たもの、すなわち信仰の道をわたしたちも追い続けなくてはなりません。(高橋牧師記)