知恵が呼びかける
「主は、その道の初めにわたし(知恵)を造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って」。 箴言8.22-31

ここ箴言の主題は知恵です。ただその知恵はこの世的なものではありません。「わたしは知恵、熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道 暴言をはく口を、わたしは憎む」(12節)とあるように、人間が所有するような知識とか、身に着ける学力といったものとは違います。そうではなくわたしたちを根本から導くもの、人の命になくてはならないものなのです。知恵は天地創造のときから、神と共にあり、神と共に働く存在でした。その知恵によって、人間は生かされ育てられていくのです。
毎週水曜日の「聖書に親しむ会」では、聖書に関することだけでなく、その延長として普段の生活の中で起きた身近な話題をも皆と一緒に話し合っています。その中で出席者だけではもったいないような内容があります。ここに紹介するのは、そのときに一同で分かち合ったものです。この祈りの詩はニューヨークの医療施設に掲げられているものだそうです。タイトルは「苦しみを超えて」。「大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶように弱い者とされた。より偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよいことができるように病気を戴いた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧しさを授かった。世の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、神を求め続けるようにと弱さを授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。わたしはあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ」。
ここにはこの世の知恵ではなく、神によって気づかされた一人の人の信仰が見られます。これもまた神から与えられた知恵なのです。わたしたちはこの世で生きる限り、自分の思い通りにいかないことがいっぱいあります。それがかなえられなければ、自分は幸せではないという思いに覆われています(強迫観念のように)。けれども自分の思い通りにはいかなくとも、神の思い通りにすべては進んでいくのではないでしょうか。また結果として自分の思いが行き詰まったとき、自分の思いが打ち砕かれたとき、まさにそこに神の導きのもと、最も自分にふさわしい道が備えられていくのです。そこへ導くのが神の知恵であり、そこに気づくのもまた神の知恵によるものなのです。
ここ箴言が語る知恵、それは天地創造に先立って存在していたものであり、それはまた同じく先在のキリスト、初めに言(ことば)があったということとも強いつながりにあることが示されています。主イエス・キリストを信じ、そこから始めることが神の知恵でもあるからです。天地創造と自然の秩序、またキリストによる救いを経た一連の出来事の中にまことの知恵があるのです。わたしたちは「主を畏れることは知恵の初め」との言葉の上に自らを始め、また自らを築き上げていく。それこそが堅い岩を土台として建てられていく家なのであり、神の知恵である主キリストに基づくものなのです。(高橋牧師記)

