油注がれたダビデ

主はあなたに仰せになりました「わが民イスラエルを牧するのはあなただ。 あなたがイスラエルの指導者となる」と。    サムエル記下5.1-5

 ダビデは数々の戦いを経て、ついに全国を統一しました。そこで長老たちがダビデのもとへやって来ました。「これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした」と言い、さらにこう続けました。「主はあなたにお仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と」。そこで長老たちとダビデは主の前に契約を結び、長老たちはダビデに油を注ぎました。ダビデ王の誕生です。

 油を注ぐ、それはイスラエルにとっては特別のことでした。ここでのダビデ王をはじめ、預言者や祭司の任職のときも同じで、それによって神の霊が降り、特別の働きへと召される聖別の象徴ともなりました。従ってここでのダビデへの油注ぎも、単に政治的な指導者になったという地上的・世俗的な儀式というだけでなく、神から特別の知恵が与えられたという信仰的な意味もあるのです。

 今日ではそれに関係するものとして牧師の按手礼があります。牧師として立てられるためには、この按手礼を必要とします。教区総会などで行われ、跪いた牧師候補の頭に手を置き、その後ろの人は前の人の肩に手を置いて祈るのです。わたしもそのように頭に手を置かれましたし、また教区議長のときは牧師候補の頭に手を置きました。按手を基礎づけるのは神ご自身、それが御言葉と祈りと共に行われるとき、まことの派遣者である神が臨まれるということなのです。

 油を注ぐという言葉は、やがて特別の意味を帯びてくるようになりました。油注がれた者とはギリシア語でキリストといいます。後にダビデのような王がもう一度お生まれになる。その方こそキリストであるという信仰の希望を生み出していくのです。マタイによる福音書の初めに系図が出てきます。書き出しは、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書かれています。それぞれの間には数百年の開きがあり、乱暴なまとめ方のように見えますが、これは普通の系図というより神の救いの歴史のという面が強調されています。

 ダビデは「イスラエルを牧する人、イスラエルの指導者」となりましたが、キリストも同様に牧者、指導者、そして世界の救い主となりました。ダビデは国を政治的、軍事的に統治することでしたが、イエスは君臨するという意味での王でなく、人々に仕えられるのでもなく、むしろ人々に仕える僕としての王でした。悩める者、悲しむ者と共に歩むことにおいて、また僕のように人々に仕えることにおいて油注がれた者であったのです。次週からアドベントに入ります。それはいっそう救い主イエス・キリストの誕生が近づいてきたということでもあります。この世界には今も紛争があり、貧しさがあります。人間関係の苦しみ、仕事のこと、また介護の疲れなどさまざまです。そうした中、主イエス・キリストは羊のようにさ迷うこの世界、そしてわたしたちを養うために、御言葉というまことの命の糧をもって導いてくだいます。この方に支えられ、導かれていることを忘れることがないよう、わたしたちはさらに信仰の道を進んでいきたいと願います。(高橋牧師記)