聖霊が鳩のように

「民衆が皆洗礼を受け、イエスもまた洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」。   ルカによる福音書3.15-22

 洗礼者ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授けていました。「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマ」です。ヨハネは彼らにバプテスマを施しながら、来たるべき主イエスを迎えるため荒れ野に道を備えていたのです。

 ヨハネは言いました。「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたにバプテスマをお授けになる」。ここでヨハネは自らの働きの重要性と同時に限界を示しました。重要さとは悔い改めのバプテスマを授けることによって、人々の心を整えていくというものです。限界とはあくまで後に来られるキリストの道備えに過ぎないという意味においてです。人の履物のひもを解くとは当時の奴隷の仕事ですが、それさえもキリストの前ではふさわしくないということです。今日でもわたしたちは水によってバプテスマを受けていますが、もはやヨハネによる罪の赦しいと悔い改めということだけにとどまらず、それをはるかに超えた新生を聖霊と火によって与えられているのです。  

 イエスもまたヨハネからの洗礼を受けることにより、伝道の生涯を始められました。彼が人々と一緒に洗礼を受け、祈っておられたときのことです。「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来」ました。ここからキリスト教では、鳩が最も一般的な聖霊のシンボルとして使われるようになっています。地面に降り立つときの姿がまことに美しく、まさに聖霊の降臨のように見えるということなのでしょう。

 鳩は聖書の中にそれ以外にいろいろと出てきます。有名なのはノアの方舟においてです。ノアは洪水後、水が引いたかどうかを確かめるために鳩を放ったところ、鳩はオリーブの葉をくわえて戻ってきました。非常に美しいストーリーで、国連の旗にある平和の象徴としてのオリーブを思い起こします。新約では「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10.16)が頭に浮かびます。

 「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」とヨハネに言わしめたイエスが、今自ら進んでヨハネから洗礼を受けられました。バプテスマ、それは罪の赦しを得させるものです。けれどもイエスにそうした赦されなくてはならない罪があったからでしょうか。そうではありません。イエスは十字架上で、2人の犯罪人と一緒でした。それは犯罪人の一人に数えられることを受け入れられたからです。イエスは罪人と共に歩むことによって、人々を癒し新しい命を与えられました。その低さ、謙虚さが宣教の初めから示されていたのです。聖霊が鳩のようにイエスに降り、天から祝福の声が聞こえたのはまさにそのときでした。わたしたちが受けている洗礼、またこれから受けようとしている洗礼とはこのような中から生まれたのでした。ここにわたしたちの生命が基づいていることを覚えて、感謝と希望をもってこれからの1年を歩み始めましょう。(高橋牧師記)