新しい神殿
「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。 ルカによる福音書21.1-19

神殿とは何か。イエスはその一つを献金を通して示されました。金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられたときのことです。そこに貧しいやもめも献金をしました。レプトン銅貨二枚です。レプトンという通貨は、1デナリオン(一日の賃金)の128分の1に相当します。女性は多くの金持ちたちが多額の献金をしている中にあって、つらい思いをしていたかもしれません。ところがイエスは違った見方をしておられました。こう言われたのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。
「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」。これがイエスの目に映った献げ方でした。この「たくさん」という意味は、もちろん数字の意味でのたくさんではありません。日本でも「長者の万灯より貧者の一灯」ということわざがあります。目に見える金額の多い少ないではなく、その人の献げるという内面もまた重要だということです。献げるとは、単に金額の動きだけをいうのではなく、自分自身をどれだけ主に委ねるのか、すなわち献身をも指し示しているのです。
神殿についてもう一つのことが語られています。それは建物としての神殿です。人々が目の前にある神殿が見事な石と奉納物で飾られている、その素晴らしさ、荘厳さに見とれていたときのことでした。神殿は旧約時代からユダヤの人々にとって信仰・精神、さらにはすべてのよりどころでした。最初に完成させたのはソロモンです。そのソロモンは献堂式の中で次のように祈っています。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしの建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(歴代誌下6.18)。ここには神殿の意味とその限界が語られています。信仰と共に建物が立派になるならば、それはそれで意味があります。けれども信仰が形骸化して、外側の建物ばかりに見とれているならば、たとえそれが神殿であったとしても「バベルの塔」と同じになってしまうのではないでしょうか。欧米における立派な教会、京都などの神社仏閣なども同様で、いつも目に見える外側は内側の信仰と一緒に進まなくてはなりません。
献げることを通して示された神殿、そして目に見える建物としての神殿、パウロは言いました。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。すなわち建物としての神殿ではなく、あなたがた自身が聖霊の宿る神殿なのです。これこそ現在の教会にほかなりません。このようにわたしたちは自分の体をもって神の栄光を現していくのであり、そのように導かれているのです。そのときわたしたちが献げる献金も、わたしたちが属する建物としての教会もふさわしい意味をもってきます。たとえ病気やその他の都合で教会へ行けないときがあったとしても、それでも究極的にはどのような場所であっても、置かれた場所が教会なのです。(高橋牧師記)

