成長する種

「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。    ルカによる福音書8.4-15

 イエスは種蒔きのたとえを語られました。そこでは4つの地に落ちた種があり、それを御言葉を聞く人々に当てはめられたのです。

 最初に蒔かれた種は道端に落ち、人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまいました。他の種は石地に落ち、芽は出たのですが、水気がないのですぐに枯れてしまいました。三番目の種は茨の中に落ち、種は成長するのですが茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまいました。最後の種は良い土地に落ち、百倍の実を結びます。

 初めの道端に落ちた種とは、御言葉を聞くには聞くのですが、それが心の中に定着しないで終わってしまう人のことです。それをイエスは悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去ってしまうと言われました。イエスの話を聞きに来る、また教会の礼拝を守る。しかしそのようにして聞くことは聞くのですが、それが表面的なところで終わってしまうのです。

 石地の種とは、「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たち」です。要するに長続きしないのです。一時は熱心であっても、試練など逆風に出会うと教会から離れてしまうケースです。日本のクリスチャンの平均寿命は3年といった皮肉を聞いたことがあります。洗礼を受けてたった3年で挫折してしまう。ある人は教会の人間関係につまずき、別の人は教会の外の生活に埋没してしまう。いずれにせよ、根がないのでその信仰が長くは続きません。  

茨の中に落ちた種。それは「御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれ、実が熟するまでに至らない人たち」です。御言葉は育つのですが、同時に茨も一緒に育ち、その成長に敗けてしまうのです。作物を育てるためには、周りの雑草を抜いたりしなくてはなりません。信仰生活も同様で、周りの環境を整える、風通しをよくしておくことが大切なのです。

 良い地に落ちた種。それは「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」と言われました。収穫を得るには、さまざまな手入れが必要であり、また月日もかかります。すぐ収穫にあずかれるわけではありません。そのためには希望を伴った忍耐が必要です。わたしたちの生活であまり多く持ちすぎると、そしてあまりに複雑になり過ぎるとかえってそれ自身が重荷となって本末転倒になってしまうことがあります。何が重要なのかの核心がずれてしまうからです。信仰生活にはできるだけ余分なものを抱えることなく、簡素で風通しのよい状態が必要です。それが成長をもたらす良い地なのではないかと思います。使徒パウロは言いました。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(コリント一3.6)。わたしたちは植え続けなくてはなりません。水を注ぐという働きも必要です。それは人任せではなく、自分の手で行わなくてはなりません。それでも最終的な実りは、神の御手に委ねられるものです。なぜなら成長の源は神ご自身にほかならないからです。その神を信頼し、自らを主に委ねつつ歩んでいきたいと願います。(高橋牧師記)