十字架を負う

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、 わたしに従いなさい」。    ルカによる福音書9.18-27

 イエスが弟子たちにお尋ねになりました。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」。弟子たちは彼らが耳にしているイエスの評判を告げます。洗礼者ヨハネとかエリヤといったうわさをです。その答えを聞いてから、イエスはさらに尋ねられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。

 信仰は「あなたはわたしを何者だと言うのか」に応えるものです。「使徒信条」の主語は「我は(わたしは)信ず」という一人称です。みんなで一緒に告白していますが、あくまで「わたし」一人の告白なのです。それと同様にペトロが答えました。「神からのメシアです」。すなわち「わたしはあなたを救い主として信じます」と告白したのでした。

 そこでイエスは自らの受難予告に次いで、言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。「十字架を背負う」、これは直接にはイエスが担われた十字架のことです。それならわたしたちにとって「日々、自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょうか。それは「自分を捨てる」ことでもあります。ゴミのようにいらないものならば、だれでも捨てることができます。それに対して自分を捨てるとは?イエスはこうも言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」。ここには二つの命が語られています。一つは失われなければならない命、それは捨て去るべき命です。もう一つは救われなくてはならない命です。

 イエスが逮捕された後、ペトロを初めとした弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまいました。それによって自分の命を守り、自分の命を愛しました。けれども弟子たちはまたそのことによって、実は自分の命を失ってしまったということでもあります。反対に「わたしのために命を失う」とあるように、キリストを信じて従うことは、自らを捨てるということなのです。

 パウロは「互いに重荷を担いなさい」(ガラテヤ書6.2)と言いました。わたしたちはキリストが担われたと同じように十字架、重荷を負うことはできません。むしろキリストによって担われた者だからです。しかし「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」との言葉を聞くとき、「日々、自分の十字架を背負って」歩むべき課題が与えられる思いがいたします。自分の十字架とは自分だけの苦しみ、病気とか自分の悩みだけにとどまりません。それだけではなく、むしろ他者の重荷を担う、それがどんなに小さなことであっても隣人の重荷を背負うということなのです。信仰者は自分一人で生きているのではありません。共に生きる者たちだからです。その中で少しでも自分の周りの人びとの苦悩と向き合おうとするならば、そのためには自分を捨てなくてはならず、またそのことが自分を捨てることでもあり、代わりにキリストを自分の心の中心に迎え入れることなのです。そのようにキリストに従うとは、自分を捨てることと切り離すことができません。まことの命はこのようにして得られるのです。(高橋牧師記)