あの方はここにいない
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。 ルカによる福音書24.1-12

婦人たちは週の初めの日の朝早く、香料を持ってイエスが葬られていたお墓へ行きました。ところが墓の入口をふさいであった大きな石がわきへ転がされ、中にあったはずのイエスの遺体がありませんでした。すると二人のみ使いが現れ、婦人たちに言うのでした。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。
「あの方は、ここにはおられない」。それなら「ここ」とはどこでしょうか。具体的にはお墓の中です。また婦人たちが途方に暮れていた場所とも言えるかもしれません。もう何年も前になりますが、「千の風になって」という歌が流行しました。「わたしのお墓の前で泣かないでください。そこにわたしはいません。眠ってなんかいません」。この出だしの歌詞を読むと、まさにここ復活の記事と同じではないかと思います。
「あの方は、ここにはおられない」。「ここ」、それは死の墓であり、その前で途方に暮れる人々の姿でもあります。そこは行き止まり。地上のあらゆる営みの最後の場所であり、その先は何もありません。詩編の中に、知恵ある者も、無知な者、愚かな者も共に死に、財産など何ひとつ携えて行くことができないとあります(49編)。それがこの地上の終点であるお墓です。そのようにイエスは死の墓に葬られました。けれどもそこを最終的な場所とすることなく、その墓からよみがえられました。復活です。死の墓を行き止まりとせず、それを超えて、それを突き抜けて、むしろそこから新しい命をもたらしてくださったのです。だからわたしたちは、死の墓をいたずらに悲しむ場所、行き止まりの場所とするのではなく、復活の命、栄光の始まりとすべきなのであり、そうすることができるのです。
人はだれでも自分の道を進むとき、途方に暮れてしまうことがあります。孤独、健康の不安、進路の迷い、人間関係の悩み、経済的な問題、さまざまです。毎年この4月という春の季節は新たなスタートとなるだけでなく、同時にそれまでなかったような新たな不安や悩み抱える時期ともなります。まさに墓の前で途方に暮れる婦人たちのように。しかしもはや主イエスはその場所にはおられませんでした。よみがえられたからです。
婦人たちは墓から帰って、使徒たちや他の人々に一部始終知らせました。わたしたちもこの婦人たちのように、人々にも知らせることを通して絶えずイエスの復活を目の前にするのです。つい日常生活の忙しさの中で忘れてしまいがちではありますが、週の初めの日、すなわち主の復活の礼拝においていつも思い起こすことにより、いかなる困難の中にあっても、乗り越える力をイエスが与えてくださることを知るのです。またその喜びの中で生きる力や勇気を自分のものだけにせず、復活のイエスを証ししていくことが必要とされているのです。四方から苦しめられることはある。しかし決して行き詰まることがない。途方に暮れることは確かにある。けれども失望することは決してない。イエスの復活による新しい命に生かされているからです。これこそがイースターのメッセージに他なりません。(高橋牧師記)

