神は人を偏り見ない
「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」。 使徒言行録11.1-18

使徒言行録を読んでいきますと、福音がユダヤから始まって、どのように世界に広がっていったかが分かります。それはまた世界の多くの人々と接触していくことを意味しています。当然そこにはいろいろな言葉を話す民族がいました。エルサレムの神殿には、婦人専用の礼拝場所だけでなく、異邦人の庭という場所もあり、ユダヤ人でない人々の礼拝場所が厳格に規定されていました。ましてそれ以外の外国人のところへ行って福音を語り、交わりを深め広めるなどということはその時点では考えられませんでした。
ペトロのコルネリウスとの出会いは、福音がこれからまさに世界のキリスト教となっていく重要な出来事として捉えられています。あるときペトロはローマの百人隊長コルネリウスから自宅に招かれました。しかし彼は躊躇します。ユダヤ人が外国人と交際したり、その家を訪問することを律法が禁じていたからです。それでも神からの導きを受けて、ペトロはコルネリウスの家を訪れました。その家族との交わりのさ中、聖霊の賜物が一同の上に等しく降ったのをペトロは目の当たりにしました。そこで彼は気づきます。どんな国の人でも神は受け入れてくださるということをです。
このカイサリアの出来事はエルサレムの教会にも伝わりました。ただし好意的に受け止められたわけではありませんでした。異邦人との交わりを非難する者たちがいたからです。彼らの戸惑いと非難は、まさにペトロ自身もコルネリウスの家に行くまで持っていたこだわりでした。そこでペトロは事の次第を順序正しく指導者たちに語りました。彼の結論は自分たち同様、彼らにも聖霊の賜物が与えられたのなら、どうしてそれを妨げることができようというものでした。それを聞いた仲間たちは、異邦人にも働かれる神を賛美しました。
「招かれざる客」というアメリカ映画がありました。人権や差別撤廃という進歩的論調を展開してきた新聞経営者の娘がある日、恋人を連れてきて結婚を許可してほしいと願い出るのです。その結婚相手は黒人の医師でした。それを見て父親は静かに、しかし深刻に悩み葛藤しました。自分が主張してきたことと、自分の心が食い違っていたからです。それでも最後に彼はどちらの気持ちも理解する妻の助言や周りの人々の意見に助けられて、その結婚を主体的に承諾しました。
この世界にはさまざまな民族が、また人種が存在しています。当然肌の色も違います。また宗教や文化の違いもありますし、いろいろな考えや主張もあり、それが時として鋭い対立をもたらしています。それでもペトロがこの出会いで気づかされたことは、「どんな人も清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」ということでした。これこそが人間の主張や民族の違いを超えて一番根本にあるものなのです。わたしたちが他人をどう見るかではなく、その前に神がわたしたち一人ひとりをどのように見ておられるか、そして等しく受け入れてくださっているかというところから始めなくてはなりません。神は人を偏り見ないというところからです。(高橋牧師記)

