生命の回復

人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」。   使徒言行録20.7-12

 第3回の宣教旅行の終わりの頃、使徒パウロはトロアスという今のトルコの海沿いの町へやってきました。同信の友を訪問するためです。この町には1週間滞在していたようです(6節)。いよいよ最後の日、彼らはパウロを迎えて礼拝を守りました。パウロは彼らともう二度と会うことはできないというところからか、ことのほか長い説教をしました。

 現代の教会において、礼拝説教は何分ぐらいが適当なのだろうかといったことを、よく牧師どうしで話し合うことがあります。もちろん選ばれる聖書の箇所や教会行事の関係上、長かったり短かったりすることはあると思いますが、近年はパソコンで原稿を作るケースが増えていますので、量はだいたい決まっているようです。わたしも毎週原稿用紙にすれば6枚ほどの説教原稿を作り、これを25分くらいで話すようにしています。もっとも説教の長い短いは、多分に心理的な面も含まれますので、一概にどうということは言えません。同じ30分でも短く感じる30分もあれば、長く感じることもあるからです。

 この日のパウロの話はいつもと違って特に長く、夜中まで続きました。そのとき事故が起きました。「エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて3階から下に落ちてしまった」。人が余りに多かったため、前のほうを他に人々にゆずり、自分は一番端の窓に甘んじたのでしょうか。そこでさすがに長く続く説教に、彼の肉体は耐えられませんでした。  

 下へ降りて起こしてみると、彼はもう死んでいました。そこでパウロは彼の上にかがみ込み、抱きかかえました。まるで旧約の預言者エリシャを彷彿とさせる姿です。エリシャも亡くなった子どもをよみがえらせたとき、このような行動を取ったからです(列王記下4章)。そしてパウロは言いました。「騒ぐな。まだ生きている」。果たしてそのとおり、青年の命はよみがえりました。それはパウロをして信仰者、使徒とならしめた復活の主イエス・キリストの力によるものです。今その命の回復がキリストの力によってなされました。このいやしの出来事には、もう1つのメッセージが示されています。すなわちこの若者の眠りばかりでなく、その死によっても、人々の信仰を眠りから覚まそうとされたということです。ここに眠りと死は重なり、わたしたちの眠りがちな信仰を高みへと導いているのです。

 このような出来事が起きてから、なおパウロは何事もなかったかのようにさらに説教を続け、それが明け方まで続きました。初代キリスト者たちは、自分の生活の一部だけで信仰、教会と関わるというのではなく、生活のすべてで関わろうとする姿勢をもっていました。ほどほどの信仰は確かに自分だけを支えるかもしれませんが、人にまで伝わることはありません。「熱くも冷たくもなく、なまぬるい」信仰では力がないのです。そうではなく自分自身を献げるほどの熱い信仰が、人に伝わっていくのであり、人の心を変えることができるのです。その力の源泉はイエス・キリストです。「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた(ヨハネ14.6)、まさにその命によってわたしたちは生かされているのです。(高橋牧師記)