泣く人と共に泣く
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。 ローマの信徒への手紙12.9-21

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」。こうした教えは、次の言葉において試され、また強められていきます。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」によってです。これは素晴らしい言葉と感じつつ、何とむずかしいことかと思わされます。皆さんはこの「喜ぶ人と共に喜ぶ」ことと、「泣く人と共に泣く」こと、どちらがむずかしいと思いますか。あるいはこの二つは同じ内容であって、人と共に喜ぶ者が、泣く者と共に泣くことができるといえるのかもしれません。
口に筆をくわえて詩画集を出しておられる星野富弘さんの初期の著作に「愛、深き淵より」があり、そこで彼は次のように証ししています。彼と同じ病室にスキーで転倒し、自分と同じように手足が麻痺してしまった中学生が入院してきたときのことです。少年はター坊と呼ばれ、病室のみんなにかわいがられていたそうです。星野さんはこんな純真な小さな子どもが、どうしてこんなにつらい思いをしなければならないのか、と自分のこと以上に腹立たしく思い、神に祈るような気持ちでター坊の回復を願いました。「私のことはある程度覚悟はできました。でも、何も知らないこの純真な少年は何とかしてください」と。ある日、少年の腕が少し動き、それからみるみるうちに機能が回復していきました。そこで同じ部屋の者だけでなく、他の病室の人々もこの少年の回復を喜びました。その時、星野さんは次のように告白しています。「しかし、そうしながらも、私は自分の心の中にどうしようもない淋しさが芽生えてきているのを認めないわけにはいかなかった。みじめなことだけれど、それはター坊への嫉妬であった。神に祈るような気持ちであれほどター坊の回復を願っていた私なのに、奇跡のようにター坊の体が動き始めたときから、ター坊を見つめる私の目には小さな影ができてしまった」。そして「私は悲しい心をもって生まれてしまったのだと思った。周囲の人が不幸になったとき自分は幸福だと思い、他人が幸福になれば自分が不幸になってしまう。自分は少しも変わらないのに、幸福になったり不幸になったりしてしまう。周囲に左右されない本当の幸福はないのだろうか。他人も幸福になり、自分も幸福になれることができないのだろうか。そんなに大きなことでなくてもよいのだ。たった今、ター坊の回復を心から喜べる私になれたら、私の顔はどんなに明るくなるだろう」。そこで花しょうぶに寄せて詩を書いています。「黒い土に根を張り/どぶ水を吸って/なぜきれいに咲けるのだろう/私は大勢の人の愛の中にいて/なぜみにくいことばかり/考えるのだろう」。
このような心は誰にでも思いあたる内面ではないでしょうか。愛には偽りがあってはならない。むしろ互いに赦し・仕え合いながら、喜びや悲しみを心から共有できるような豊かな交わりを育てていきたいと私も心から願います。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」との勧めの言葉に励まされながら。(高橋牧師記)

