信仰と愛と希望

「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。    テサロニケの信徒への手紙一1.1-10

 テサロニケの教会の人々が保っていた信仰の姿勢についてパウロは次のように語りました。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。ここにはパウロの重要な言葉が3つ含まれています。信仰と愛と希望です。

 この手紙の後に書かれたコリントの第一の手紙で、これはさらに展開されています。有名な13章においてです。その最後のところで次のように結んでいます。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。  

 それならば聖書が語る信仰と希望と愛とはいったいどのようなものなのでしょうか。これをコリント13章と重ねて読んでいきますと、具体的にはこのようになります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。ねたみ、いらだち、恨み、これらは今もわたしたちの心を支配し、それによって苦しんでいるのではないでしょうか。情け深さにおいてはどうか。また礼を失せずについては……?こうした罪の心に支配されているゆえに、自らが不自由になり、また人と人との関係をもうまく造り上げることができません。そしてそれをさらに大きくしたものが、国と国との争いということになります。この世界は自分中心であると同様に、自分の国中心、自分の民族中心で動いています。「愛は自分の利益を求めず」とは正反対の世界です。そのために信仰が、愛が、希望がわたしたち、わたしたちの世界には必要なのです。信仰によって働く、愛のために労苦する、希望をもって忍耐することが今も求められているのです。

 主イエスは自分の利益を求めることなく、しもべとして人々に仕えられました。自らの命を捨てることによって、新しい命をわたしたちに与えてくださいました。わたしたちの現在はこの恵みに基づいているのであり、それこそが信仰であり、キリストの愛による生活なのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2.20)とある通りです。

 この世から出たもの、人間の可能性などに基づく希望は最終的な希望とはなりえません。どのようなすぐれた知識であっても、社会の立派な体制であっても、そこには限界があります。そうではなく、「主よ来りませ」とのキリストの来臨こそが最終的な希望なのであり、それがわたしたちの命を支えるものなのです。信仰と愛と希望、この3つはこのようにすべてキリストから出たものであり、主によってわたしたちに与えられた恵みなのです。(高橋牧師記)