誇 り

「わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません」。   コリントの信徒への手紙二11.7-15

 パウロの手紙を読んでいますと、「誇り」という言葉が大変多く出てきます。それだけ彼にとって重要だったからです。それはわたしたちとて同様です。変な意味のプライドではなく、人間として生きていく上で誇りは必要だからです。

 それなら人としてのプライドとは何でしょう。それをどこに求めたらよいのだろうか。誇り(プライド)には大きく二つあります。一つは肉による誇り、この世的なプライドです。次の11.18以降にそれが少し出ています。「だれかが、何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです」。それは別の箇所でも、律法に関してはファリサイ派の一員、律法の義については非のうちどころのない者であったと自らを述べています。これらは当時の社会では、分かりやすい誇りの一覧でした。恵まれた出自、高い学識といったものです。現代でも社会的な地位・肩書とか収入の多さなどは、誇りにつながっています。パウロもそうでした。いや、それらが完全になくなったわけではないと思いますが、この世的な誇りから決別して得たのが、もう一つの誇りでした。  

 それをパウロは次のように語っています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。ここには肉を超えた、地上のものに縛られないキリストにある誇りが語られています。

 パウロにとって誇りとは、十字架につけられたキリストに基づくものでした。それはこの世的な地位の高さや力の強さではなく、むしろこの世では愚かであっても、弱くても、低くとも、そこに宿るものなのです。だからパウロ自身も宣教の愚かさ、また自分自身の肉体の弱さや貧しさをいやというほど体験しつつも、そこに注がれた神の恵みを知ることができました。その誇りについての一連の主張の中で、彼は次の12章でこう述べています。パウロ自身が自分の病がいやされるよう祈ったとき、主イエスがこう答えられたのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。そこで彼は気づきました。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。これこそがもう一つの、新しい誇りであり、それはキリストにあって見いだすことのできるものでした。わたしたちは地上の不確かなものに頼るのではなく、信じる者には誰にも等しく与えられているこの恵みを受けて歩んでいくのです。「誇る者は主イエスを誇れ」とあるとおりです。(高橋牧師記)