新しく造られた者
「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」。 ガラテヤの信徒への手紙6.11-18

ガラテヤの教会の人々は、信仰の迷いに陥りました。最初はそうでなかったのですが、律法主義者の影響を受けて、福音の恵みからそれてしまったのです。そこでパウロは今一度十字架の福音を語るのでした。自分に頼るのではなく、その他この世にあるものでもなく、ただわたしたちのために命をささげてくださったキリストの信仰だけがすべてだということを。だから言うのです。「主イエス・キリストの十字架ほかに、誇るものが決してあってはなりません」。
これらは洗礼に深く結びついています。洗礼とは形としては水を用いるものですが、内容としてはそれまでの古い自分が死に、キリストによって新しい命に生きるというものです。洗礼式のときよく読まれる聖書のように、一方ではキリストと共に葬られその死にあずかることであり、もう一方ではキリストが死者の中から復活されたように新しい命に生きるという両面を含んでいます。(ローマ6.4)。そこにわたしたちの霊的な、新しい生活における、死と命が込められているのです。
「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」。すなわちこの世界はわたしにとって、恐れであっても、反対に支えになるとか魅力であるということであっても、そうした重要な要因であることをやめたということです。あるいはまた、わたしは世に対して死ぬことによって、自分がもはや世に惑わされるとか、世に価値を見いだしてそれに依存して生きるということがなくなったということを述べているのです。それこそが新しい人間の創造なのです。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです」とある通りです。この「新しい創造」こそが、洗礼を通して可能となりました。
この恵みを受けて生きる者は、16節にあるように「このような原理に従って生きていく人」なのです。この「原理」に相当するギリシア語が「カノン」という言葉です。他の聖書では「基準」とか「法則」と訳しています。カノンという言葉は、もともとは物差しとか定規という意味です。家を建てようとする建築家は、水準器などを用いて順序正しく基礎から造り上げていきます。自分の感覚とか見た目だけでは堅固な家はできません。それと同じように、人生の建築は、自分の中にではなく、自分の外に、この世を超えたカノン(基準)が必要ということであり、信仰者にはキリストの十字架こそがまさにそのカノンなのです。
「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」。わたしたち信仰者は自らの人生行路を、何も基準を持たずに進むのではなく、自分の経験や考えのみに従うのでもなく、明確な基準、すなわちキリストの十字架による一方的な恵みとして与えられたカノンに沿って進むべき方向、その位置、そして様々なことを判断していくように導かれています。世はわたしに対し、わたしは世に対して死にました。もはや肉に従って生きているのではなく、ひとえにキリストの恵みにより、新たに造りかえられた者としてわたしたちは歩んでいくのです。(高橋牧師記)

