差 別
「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。 ヤコブの手紙2.1-13

現在、世界の至る所に壁があります。外国人の不法流入を防ぐために欧州、米国、それにパレスチナなどにです。日本は周りが海ですからさすがに壁を作る必要はありません。しかしそうした壁はありませんが、目に見えない壁はどうでしょうか。現在問題となっているSNSでのヘイトスピーチなど、これもまた一つの壁だといえます。
「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」。ここには教会の中にさえある、富める者と貧しい者との壁が叱責されています。富者は温かく迎えても、貧者に冷たく接していたからです。
人を「分け隔てする」、このギリシア語は「顔」という言葉と「取る」という二つの言葉から成る合成語です。つまり「顔を取る」ということであり、そこから人の顔を見るとか、偏り見るというように使われます。そうした分け隔ては、貧富の世界だけでなく、それ以外にも様々な差別がこの世界には存在しています。
「隣人を自分のように愛しなさい」(8節)。これは旧約レビ記に書かれている言葉で、新約聖書に最も影響を与えている言葉です。今、収穫の秋に入っていますが、その収穫について同じレビ記に、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しいものや寄留者のために残しておかねばならない」と書かれています。まさにミレーが描いた「落ち穂拾い」の世界そのものです。
「隣人を自分のように愛する」とありますが、それは人を分け隔てすることの対極にある態度です。イエスも「善きサマリア人」のたとえでそれを強調されました。民族や宗教の違い、肌の色の違い、言葉の違い、そうした様々な違いがあっても、だからそこに壁を作るというのではなく、自らの隣人として受け入れていくことを語っているのであり、それを信仰者に求めています。
「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。これはイエスの母マリアの「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」との賛美と共通します。それだけではありせん。イエスご自身も、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」と言われました。
イエスはそのように貧しく無力なわたしたち一人ひとりに憐れみをかけてくださいました。だからわたしたちも同じように出て行って他の人々を、自分と違うからといった理由で分け隔てするのではなく、むしろ自分のように愛していくことが大切なのではないでしょうか。実行するには厳しい勧めの言葉ですが、主イエス・キリストを見つめながら、たどたどしい歩みではあっても一歩一歩進んでいきたいと願います。(高橋牧師記)

