喜び

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。  フィリピの信徒への手紙1.1-11

 フィリピの信徒への手紙は、別名「喜びの手紙」とも言われています。送り主である使徒パウロとフィリピの教会との関係が良好で、喜びに満ちていたからです。こうあります。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。わたしたちが信仰者として歩み始めてから今に至るまでがそうであったように、現在も、そしてこれから先も山あり谷ありの連続に違いありません。学業や仕事がうまく行くとか行かないとかが繰り返されます。健康が病や怪我等によって脅かされ、生活費の心配も出てきます。それによって信仰も揺れるものです。高齢化に伴い家族の介護による疲れによって、信仰が試されることもあるでしょう。けれども信仰はわたしたち自身ががんばって守るものというものでも、守ることができるものでもありません。それは上からの、神から与えられた賜物だからです。信仰とは人間が自分で得ることのできるというものではなく、神から与えられた恵みなのです。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」。信仰者として行う数々の奉仕・働きは、恵みとしてわたしたちにおいて始められ、将来のキリストの日までにその業を成し遂げてくださるという確信です。

  わたしたちの日々の生活には、人間的に判断すれば信仰を持ち続け、教会生活を続けることが困難に映るようなことがあるかもしれません。しかし信仰の創始者はわたし自身ではありません。キリスト・イエスが創始者であり、また完成者なのです。だからわたしたちはこの神の業の完成を妨げるような困難な事態に直面しても、それがたとえどれほど深刻なものに見えたとしても、それに押しつぶされることなく、あきらめることなく、神に祈り続けることができるのです。

 苦しいことに直面すれば「笑い」は消え去るかもしれない。笑顔どころではなくなるからです。けれども「喜び」はどうだろうか。喜びはわたしたちから取り去られることはありません。なぜなら神がこれまで同様、これからも、キリストの日という完成の日まで守り導いてくださることを確信しているからです。この喜びは、決して楽観主義のような喜びではありません。もっと深いところで支えられているという信仰の確信に基づくものなのです。それは唯一神に根拠を持つ喜びともいえます。だからキリスト者は喜びをもって困難なことに直面しても祈ることができるのです。喜びと祈りは対をなしています。「いつも喜びをもって祈る」。これこそが信仰者の喜びなのです。

 もちろんわたしたちはいつも途上の者にすぎません。それでもイエス・キリストの救いという善き業が既に始まり、完成まで導かれていくという途上でもあります。だからこそ途中でどのようなことがあったとしても落胆することなく、上を見上げながら進んでいくことができるのです。わたしたちの弱さの中にも力強く働く神の恵みが、まさに今ここに示されているのです。(高橋牧師記)