神のかたち
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」。 創世記1.24-31

人間とは何か。自分とは何者なのか。これまで多くの人が、いろいろな説明をしてきました。「人間とは考える葦である」は中でもよく知られています。ならば聖書はどのように言っているのでしょうか。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」。これが聖書の示す人間とは何かです。「神のかたち」としての人間。それならば、「神のかたち」とはどういう意味なのだろうか。
古代旧約の時代、ユダヤの周辺の国々において、その国の王は神のかたち、神の似姿としてその座についていました。エジプト、メソポタミア、またローマ皇帝も例外ではありません。ここ創世記1章が書かれたのは、紀元前6世紀に祭司たちによってまとめられたと言われています。それはユダヤの民がバビロン捕囚を経験した時代でした。国が亡び、自分たちの精神的支柱であった神殿も破壊され、遠く異国の地バビロンへ連れ去られました。そこでの生活はまことに惨めなものであり、支配者からは虫けらのように扱われ、人間の尊厳はズタズタに切り裂かれました。そうした中で聖書は宣言するのでした。「神は御自分にかたどって人を創造された」。
このメッセージは人類最初の人権宣言であるといってよいと思います。どのよう人間であっても分け隔てなく、いかなる困難な環境に置かれていても、またたとえ王のような権力者でなくとも、人はだれもが「神のかたち」として存在しているということにおいてです。
近年、内閣に孤独・孤立対策担当大臣なる職が設けられています。子どもたちが学校でいじめにあったり、うまくその環境に適応できずに引きこもってしまう。それは子どもだけに限らず、社会人であっても、職場になじめず、自宅に引きこもってしまうことも多くあります。高齢化した今日、老人の孤独も深刻です。
けれども人は一人であっても決して孤独ではありませんし、そうであってはなりません。誰もが等しく神のかたちとして造られた者であり、そのように存在しているのです。誰もが尊い存在として生かされているのです。自分一人で生きているとか、自分一人の力で生きようとするのではなく、神を仰ぎ、神を信じて生きることにおいて、人間は尊厳のある存在なのです。
「神のかたち」としての人間は、新約聖書にも重要な意味を伴って受け継がれていきます。まず何よりも、人となられた主イエス・キリスト御自身が神のかたちでありました。「御子は、見えない神の姿」とあるとおりです(コロサイ1.15)。そしてそのキリストにつながるわたしたちもまた「神のかたち」だと述べられています。わたしたち人間は、どのような境遇にあっても、たとえ満腹していても空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、また健やかなときでも病むときでも、それによって人間の価値が高まったり低くなったりすることはなく、どこまでもキリストの恵みによって「神のかたち」としての尊厳をもっている、そのような尊厳が与えられているのです。それは全生涯にわたって決して失われることはありません。(高橋牧師記)

