あなたはどこにいるか

  主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れて
おります。わたしは裸ですから。」   創世記3.1-19

 蛇が女にこんな言葉を投げかけました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。実はこれだけ読んだのではよく分かりません。前章からの続きだからです。「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられ」ました(9節)。さらに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われます(16節)。つまりどれでも自由に食べてよいという面と、してはならないという二点において楽園は成り立っていたのでした。もう少しつけ加えれば、神が食べてはいけない禁止の木を園の中央に置かれたのは、人間が中心になってはならず、思うべき限度を超えてはならないという制限でもありましょう。

 この調和を崩したのが狡猾な蛇でした。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。この蛇の言葉は正確ではありません。神はすべての木から取って食べなさいと言われたのであって、どの木からも食べてはいけないと言われたわけではありません。蛇は神の言葉を歪曲しています。それにより彼ら2人の心に動揺が生まれ、自分たちは自由に生きていないという思いに支配されました。  

 「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆してい」ました。エバの心が変わったのです。果実そのものが突然魅力的になってエバを引きつけ、唆したのではありません。宗教改革者のカルヴァンはここを次のように述べています。「今まで彼女は何百回、何千回とこの木の下を通り過ぎたが、食べたいという衝動に少しも心を動かされることなく、冷静にこの木を眺めてきた。なぜなら神への信頼が、彼女の心と感覚を守っていたからである。ところが蛇の誘惑の言葉を耳にしてからは、以前のような自由な心で、欲に動かされずにもはやこの木を見ることはできなくなってしまった」。

 木の実を食べた後、アダムとエバの2人は崩れていきます。神との関係、そして人との関係においてです。彼らは神の顔を避けるようになりました。そんな2人に神は声をかけられました。「あなたはどこにいるか」。それに対する彼らの応答には、自分の非を認めるのではなく、アダムはエバに、エバはだました蛇に責任を負わせようとしました。現在の戦争を初めとした世界の混乱、そしてわたしたち人間の心を支配する不安や恐れ、孤独や怒りは、こうした罪と深く関係しています。

 「あなたはどこにいるか」。「どこに?」、それは場所のことだけではなく、どこを向いて生きているのか、何を信じて生きようとしているのかということも含めての問いかけでしょう。そうした中、まことの牧者であるイエスは迷える1匹の羊をどこまでも探し求めるように、わたしたちに御手を差し伸べてくださっています。自力で立ち直ることのできない疲れた者やさ迷う者の傍らに、病める者の枕元に、そして足腰が弱った者の杖となってです。その救い主イエスが誕生するクリスマスを今年も迎えようとしています。(高橋牧師記)