パンを持った少年

  弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がい
    ます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。  ヨハネによる福音書6.1-15

 イエスの話を聞くために、多くの人々が集まっていました。一息入れたところで、イエスはフィリポに向かってこう言いました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいのだろうか」。フィリポは答えました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。2百デナリオンとは労働者が200日働いたお金です。そんなお金が自分たちにあるわけでもないし、ましてこれだけ大勢の胃袋を満たすだけのパンを調達することはむずかしいという、しごくまっとうな答えでした。

 次に現れたのはアンデレです。彼は子どもを連れて来ました。実は1章でも彼は自分の兄弟ペトロをイエスのもとへ連れて行きました。そして今度はパンを持った少年をイエスのもとへ。ただそうした行動力はあったのですが、アンデレの思いもフィリポ同様消極的なものに過ぎませんでした。「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言うのでした。  

 この2人の弟子たちの言葉には、イエスの力を信じていないわけではないが、十分に確信をもって信じるという面が欠けていました。それにもかかわらず、彼ら信仰者の弱さを超えて、イエスの偉大な力が奇跡として現されたのでした。そのことを思うと、わたしたちが今持っているもの、あるいは自分自身に今与えられている賜物を過少評価してはいないでしょうか。それがフィリポのように「これだけでは足りないでしょう」とか、アンデレのように「何の役にも立たないでしょう」との言葉につながるのです。しかしイエスが祝福して用いてくだされば、それらは決して小さいことでも、少ないことでもない。むしろそれらを用いて、もっと豊かにしてくださることをこの物語は教えてくれるのです。

 そのような信仰の小ささにもかかわらず、アンデレが子どもに信頼されていたことは注目に値します。普通子どもは自分の持ち物を人に分け与えるということは「いやだ!」と言ってなかなかしないものです。それに対して、アンデレはイエスを信頼する大切さを子どもにうまく語ったのでしょう。この少年が自分の食べ物を皆に分け与えようとして差し出したのは、アンデレに対する信頼の結果だったのです。

 わずか5つのパンと2匹の魚から5千人の胃袋を満たしたというこの出来事を通して、イエスは永遠のパン、まことのパンとは何かを指し示されました。お腹に入れたパンはまたなくなり、やがては空腹になり喉も渇きます。胃袋に入れるものは生きていくために必要ですが、それ以上にもっと大切なものは、またなくなってしまうものではなく、永遠に朽ちることのない食べ物であり、それこそが「わたしが命のパンである」と言われたイエスその人であり、その方を、そしてその方が語られた言葉を信じることでした。山で食事にあずかったとき、食べてなおパンが12籠いっぱい余ったように、わたしたちは主にあって溢れるばかりの心の糧も与えられるのです。(高橋牧師記)