見えるようになる

 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためであ
   る」。  ヨハネによる福音書9.1-12

 ここに一人、生まれつき目の見えない人が道端で物乞いをしていました。そこをイエスが通りかかったとき、弟子たちがイエスに尋ねました。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。「なぜ目が見えないまま生まれてきたのか」。これは厳しく、しかも重い問いです。しかも他の人でなく、このわたしに……。こうした問いがこれまでにどれだけ発せられてきたでしょうか。そして今も発せられているでしょうか。けれども次に続く問いは果たして必要だろうか。「だれが罪を犯したからですか」。これはふさわしい問いではありません。むしろ残酷な問いといってよいと思います。

 ある苦しみの原因を過去に求めるのは、古今東西よく行われてきたことです。そこには罪の結果としての罰、それが目の見えない苦しみとなっているというものです。それによって人はますます苦しみ、間違った意味で宗教的な世界に捕らわれていくことがあります。一般にこれを因果応報と言い、この分かりやすい教えは、現在の日本においても支配的な考えとなっています。今問題になっている統一教会の手法もこれと似ています。これは必ずしも日本だけでなく、聖書の世界にもありました。先程の弟子たちが「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」がそれです。決して彼らが意地悪であったからというのではなく、当時の社会の中にあった一般的な考えであったのでしょう。

 けれどもイエスは、そうした捉えかたを否定されました。こうお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。「神の業がこの人に現れるために」。それは過去による結果としても盲目ではなく、未来の、明日の原因としての苦しみを示したものでした。これは信仰から来る希望です。考えてみれば、わたしたちが今ここにいるということは、昨日の結果ではありますが、それと同時に明日の原因ともなります。昨日までの結果を刈り取っていますけれど、同時に今日どのように生きるかによって明日の意味がずいぶんと変わってくるものです。たとえ今が苦しい不幸と思えるような状況にあったとしても、されさえも明日を造り出す原因・課題となり、出発となるのです。神はそうした不遇な環境さえもお用いになるからです。ここには宿命論や因果応報はありません。まさに「神の業が現れるための」、そのように未来に開かれた今日、そのような現在の境遇ということです。たとえどのようにつらいことに直面していても、納得できない試練に遭ったとしても、神はそのようなわたしを用いて、明日を切り開いてくださるのです。 

 われわれの生涯は、現在の境遇がどのようなものであっても、そのままの自分が用いられて「神の業が現れる」ための生涯です。「神の業」は一人ひとり様々なかたちで現れますが、だれもが明日に開かれた生涯です。そしてその体験をすることによって、実際の目を超えて、これまで以上に多くのものが見えるようになるのです。(高橋牧師記)