人を生かすものは霊

 「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」。   
                                           ヨハネによる福音書6.60-71

 事の始まりはイエスが5千人にパンを与える出来事でした。その奇跡を体験した人々に対し、イエスは食べるパンを与えつつ、それを超えたところの見えない永遠のパンとは何かを指し示されました。こう言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)。そのパンをくださいと願う人々に対し、イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました(35節)。

 ところがその命のパンを理解できなかった人々はイエスから離れ去り、もはや共に歩まなくなりました。多くの弟子たちがイエスから離れ去ったとき、イエスは12弟子に「あなたがたも離れていきたいか」と言われました。それに対しペトロが代表して信仰の告白をしました。それでもユダの裏切りは特別としても、他の弟子たちもイエスから離れ去ったのは事実でした。彼らにも信仰の挫折があったのです。

 わたしたちも信仰に入るとき、だれも最初からイエスから離れ去るとは想定していません。けれども人間は、しばしば自分の語った言葉を守り切れない弱さ、善をなそうとする意志はあっても、それを実行できない弱さを抱えています。善を望んでいても、行うのは反対の望まない悪。そんな不安定な自分自身に振り回されるのが実態ではないでしょうか。そして人を、神を裏切る。  

 ドイツの牧師ボンへファーの著作に「キリストに従う」という有名な書物があります。その中で「安価な恵みと高価な恵み」について述べています。こう言います。「安価な恵みとは投げ売りされた赦しや慰めや聖礼典のことである。それは悔い改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒規抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、服従のない恵みである」。それに対して高価な恵みとは、キリストの十字架を負うことによって与えられるものであり、この世への、また自分への愛着を捨てることへの招きともなる。キリストの招きにあずかるとは、自己主張でなく自己犠牲の中にある恵みと言うのです。

 イエスは言われました。「命を与えるのは、“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」。「肉は何の役にも立たない」。肉とは自分が中心になる世界であり、ただ要求するだけの信仰です。しかしわたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って歩んでいるのではなく、霊に従っているのであり、そのように導かれています。

 わたしたちは朽ちるパンを通して生かされていますが、そこで止まってしまうのではなく、それを通して朽ちないものを信じていくのです。群衆は食べるパンのことに関してのみイエスに関心を示し、多くがついて来ました。だが自分たちも苦難の杯を飲むとなると、もはやそこからは共に歩もうとはしませんでした。十字架の狭い道をイエスに従って進むことになると、イエスから離れていきました。けれどもその先にこそ、まさにその先にこそまことの命があることをイエスはわたしたちに示しておられるのです。(高橋牧師記)