香油のかおり
「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐっ
た。家は香油の香りでいっぱいになった」。 ヨハネによる福音書12.1-8

イエスがベタニアで食事に招かれていたときのことです。マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。1リトラとは約326gです。それを全部かけたということではなくても、家いっぱいにそのかぐわしい香りが広がるには十分でした。
アロマセラピーは現代人にとってけっこう人気があるようです。香りによって心身の健康を図るものです。この言葉はギリシア語から来ています。アロマとは十字架から降ろされたイエスの体に塗る香料として出てきます。他方セラピーはイエスが病人などを癒されるときの癒しという意味です。そこから香りによる癒しということで、現在使われているのです。
マリアによってナルドの香油の香りが部屋いっぱいに広がったときでした。それを違った意味で受け止める者がいました。イスカリオテのユダです。彼にはこのかぐわしい香りがそのまま届かず、反対に腹立たしさをもって受け止め、香油を注いだマリアを非難したのでした。「なぜ、この香油を3百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。3百デナリオンとは当時の労働者の年収に相当します。マリアの行為が無駄遣いに見えたのでしょう。
しかし、イエスは彼とは違った受け止め方をしていました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」。イエスはこのとき十字架の死に向かおうとしておられました。そうした死の直前という緊迫した雰囲気を感じていたのは、マリアも同じだったのです。それゆえ今ここでマリアにできる最大の働きは、自分の高価な香油をイエスの死の備えとして献げることでした。
わたしたちの人生において何が無駄であり、また無駄遣いではないのか。それは簡単に計算から導き出せるものではありません。献金はお金の動きではありますが、単にお金のやり取りを示しているだけではなく、献身の一つのしるしです。それはまた奉仕に向かったり、様々な社会的な活動を生み出していきます。今ここでマリアは自分にできる精一杯の献身の業を行ったのでした。
「主はいのちを あたえませり、主は血しおを ながしませり。その死によりてぞ われは生きぬ。われなにをなして 主にむくいし」と讃美歌にあります(332番1節)。パウロも言いました。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(2コリント2.15-16)。マリアの献げた香油の香りは、まさにイエスの十字架の死の香りでもあり、その死からのよみがえりともなる命の香りでもありました。わたしたちもそれぞれのナルドの香油を用意し、自分の部屋を、また身近の場所を豊かな香りいっぱいにしたいと願います。それがどのようなものであっても、またどんなに小さな業であっても、主イエス・キリストによってそれが良い香りとなり、命をもたらす香りとなっていくからです。(高橋牧師記)

