希望の朝
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
ヨハネによる福音書20.11-18

復活の朝、イエスはご自身をマリアに現されました。彼女がひとり墓の前に残って泣いていたときのことです。ひたむきな愛がここによく出ています。しかしその愛は、復活の信仰を欠いた自分の思い込みが中心のものでした。14節にこう記されています。彼女が「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」。イエスが見えたけれど、それがイエスだとは分からなかったとはどういうことでしょうか。マリアの信仰はひたむきなもので素晴らしいかもしれませんが、それはイエスを死人の中に求めるものでしかありませんでした。彼女は自分の前に復活のイエスが立っておられるのを見ても、園の管理人だと思い込んでいたのです。イエスは亡くなられ、この墓に葬られた。ところが今その遺体が見当たらない。誰かが取り去ったに違いない。マリアはこの延長で考えていたゆえに、よみがえりのイエスに気づくことがなかったのです。復活の約束の言葉が自分のものになっていなかったからです。
わたしたちもこうした思い込みとか先入観によって、多くの大切なことを見過ごすことがあるのではないでしょうか。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」とパウロが語っています(コリント二4.18)。また小説「星の王子さま」でも、かんじんなことは目に見えないと述べています。重要なのは先入観を交えない澄んだ心です。反対に強い自己主張の気持ちに支配されますと、大切なものを見失いがちです。
そうした思い込みに支配されていた彼女が、イエスに気づいたのは名前を呼ばれたときでした。それまでの「婦人よ」から「マリア」という固有の名前を呼ばれたときです。信仰とはこのように一方で自分の名前を呼び招く方がおられ、他方ではそれに応える者がいるという一対一の関係です。そのとき初めて、自分の前におられる人がお墓の管理人ではなく、復活のイエス・キリストであることが分かったのでした。
わたしたちはイエスを墓の中に求めてはなりません。お墓は人生最後の重要な場所には違いありませんが、だがそこで終わりではない。なぜならイエスはそこにはもうおられないからです。墓に行き、その前で泣く姿は愛と信仰の証しであるかもしれません。けれどもそこにとどまっていてはならないのです。もしわたしたちがイエスと共に歩もうとするならば、墓の前にたたずむことではなく、イエスのおられる所にいるべきです。そのおられる所とは、墓の中ではなく墓の外です。復活の主は信仰者の交わりの中に、わたしたちが共に祈るその祈りの中におられるからのです。墓とそこに残された亜麻布は古い自分であり、そこにこだわるのはたとえ熱心であっても人間的な思いから出たものにすぎません。わたしたちはそうしたものから目を離して、すなわち墓の方向ではなく、マリアが後ろを振り向いて復活のイエスに出会ったように、墓の外に方向転換しなくてはなりません。マリアは弟子たちのところへ行き、「わたしは主を見ました」と告げました。この「見る」こそ、まさに信仰に基づく、復活のイエスを見るというものでした。この信仰がイースター朝わたしたちにも与えられているゆえに、希望をもって歩むことができるのです。(高橋牧師記)

