渇くことのない水
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生き
た水が川となって流れ出るようになる」。 ヨハネによる福音書7.32-39

ユダヤの三つの大きな祭りの一つ、仮庵祭でエルサレムはぎわっていました。イエスを取り巻く状況としては、ファリサイ派などユダヤの指導者たちはイエスを殺そうとその口実を捜していました。そのときイエスは言われました。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしなった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」。
この意味は人々に分かりませんでした。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりなのだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」がそれを表しています。「離散しているユダヤ人」、これをギリシア語では一言「ディアスポラ」と書きます。戦争や経済的な理由で、パレスチナ以外の地に散らばっていったユダヤ人のことを言います。現在の中近東や北アフリカの人々が難民となってヨーロッパへ行く姿と重ねることができるかもしれません。
「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」。ユダヤ人たちはイエスの言葉をこのように地平線上のことと理解したのです。けれどもイエスはそのような意味で語ったのではありませんでした。そうではなくイエスは垂直線上のこととして語られたのでした。
そこでイエスは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。渇くとか空腹とは、水や食べ物があればすむとういうことではなく、人間の心、魂の空虚さを指したものです。それを渇きと言い、いったいそれは何によって満たされるのかがここで示されているのです。少し前の4章ではサマリアの女との出会いが語られています。そこでイエスは女に向かって言われました。「この(井戸)水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13-14節)。そこでは具体的な飲み水から始まった遣り取りだったのですが、イエスはそうした肉体の喉を潤す飲み水から始めて、それ以上に心を癒す魂の水を指し示されたのでした。それこそが福音の根幹をなす、主イエス・キリストの救いと深く関係するものです。
その渇きを潤す水とは、具体的には聖霊です。聖霊がその人の内に生きた水となって豊かに流れていく。人間には口の渇きをいやす水、胃袋を満たす食べ物はもちろん必要ですが、それがあれば十分というわけでもありません。人間はいつも神から離れがちであり、自分中心に生きようとします。それに伴い心の空虚さ、不安や恐れがいつも影のようにつきまといます。喜びや感謝の心より、不満や不足感のほうが心を支配するのが現実です。イエスはそんなわたしたちを招き声をかけてくださいました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。そうです、信じる者にはだれにでも等しく、救いの泉から豊かな水を汲むことができるのです。(高橋牧師記)

