あかし
「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立
派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」。 テモテ書一6.11-21

「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」。古代の教会でこのような徳が強調されていたのですが、それは今の時代においても同じでしょう。変わることのない根本的なものとして、わたしたちも追い求めていかなくてはならないものです。それと同時に避けるべきものもあります。信仰の歩みは追い求めるものと、避けるべきものとによって成り立つからです。それは直前に勧められています。こうです。「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。」(3-5節)。こうしたものを避けつつ、同時に追い求めるものが何であるかが示されているのです。
そういう意味で、信仰者とは戦う信仰者であり、また教会も戦う教会といえます。もちろんその戦いは武器を手にしたものではありません。そうではなく一方では追い求めるものに向かいつつ、他方では避けるべきものに背を向けつつ歩み続けるのがわたしたちの道なのです。ちょうど作物を育てるためには、養分を与えつつ、同時に周りの雑草を刈り取るようにです。主イエスが「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8.34)と言われたように、従うことは、また捨てることを伴うのです。
それはまた次の言葉にも示されています。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」。ここに「戦い」という言葉が出てきます。それは古代ギリシアのスポーツ選手の戦いに用いられる用語です。あと2カ月もすればオリンピックがパリで開催されます。アスリートの戦いとは、他の選手との競争というだけでなく、自分自身との戦いもあります。避けるべきもの、節制すべきものは徹底して控え、追い求めるべきものに向かって訓練していく姿においては同じなのです。
信仰者の戦いとは、あかしの生活ともいえます。あかしとは自らの信仰を公に告白するということで、殉教にも連なるものです。昔はそれだけ厳しい戦いをもたらしたからです。今日、あかしが摩擦を引き起こすことはあっても、命を脅かすことはありません。それでもその重さには依然として変わりはなく、影響力もあり、反対する力も強いものです。今の時代、伝道が振るわないと誰もが実感しています。その原因に今日の社会情勢があることを多くの人は指摘します。もちろんそれもあるでしょう。しかしそのようなことはいつの時代でも同じです。大切なことはここで示されているように、戦うキリスト者であるのか、そのようなあかし人であるかではないでしょうか。この世で信仰者として生きることは、自分自身に対しても、対外的にも戦いなのです。しかしそんなわたしたちが支えられているのは、自らの力によってではなく、王の王、主の主であるキリストの力と恵みによるものであり、この方による召しによるものです。だからこそ信仰の戦いが可能なのです。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を追い求めつつ、わたしたちはあかしのできる、すなわち戦う信仰者でありたいと願います。(高橋牧師記)

