み言葉はあなたの近くに
「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」。 ローマの信徒への手紙10.5-13

この箇所は9章から11章まで続く、いわゆるユダヤ人問題の一部です。パウロは彼らの信仰理解を次のように批判しました。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」。義とは聖書の中心となる言葉です。特にそれがパウロによって用いられるとき、「信仰による義」という言い方に代表されるように、キリストの十字架による救いというように用いられます。それはユダヤ人が追い求めた律法の行いによる義と対立し、ただキリストを信じる信仰ということです。
まさに「み言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と言われるとおりです。そのみ言葉とは信仰の言葉、救いの言葉です。それは決して遠いところへ捜し求めていくようなものではありません。その救いは天高くに求める必要もありません。また低きところに求めることも必要ありません。なぜならキリストはいと高きところにおられたにもかかわらず、あえて貧しい姿を取り、僕として歩まれたからです。わたしたちが求める先に、キリストがわたしたちに近づいてきてくださったのです。ユダヤ人が神の義を誤解して、自分の義を求めようとして、結果として神の義から離れてしまった。それに対して、救いのみ言葉はわたしたちの近くに、あなたの口に、あなたの心にあるのです。
「イエスは主である」、「神がイエスを死者の中から復活させられた」、これは信仰の中心をなすもので、わたしたちの救いはこの信仰告白に基づいています。そこにはユダヤ人とギリシア人の区別はなく、主の名を呼び求める者はだれでも救われます。ただキリストを信じる信仰の義なのです。それは決してむずかしいものではありません。ユダヤ人が誤解して自分の義を追い求め、かえってむずかしくしてしまったのと正反対です。
それで思い起こすのは、夏目漱石の小説「門」です。これはマタイによる福音書の「狭い門から入りなさい」とか「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7章)から取られたものと思います。主人公宗助が親友を裏切り、三角関係の中で良心の呵責により神経をすり減らしていきます。神経衰弱です。そこで彼は救いを求めて鎌倉の禅寺へ1週間ほど修行に行きました。けれども彼の心はいっこうに晴れることがありませんでした。救いの門を開けてもらいに来たのですが、目的は達成できなかったのです。そんな彼を作者は次のように綴っています。「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないですむ人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのをじっと待つべき不幸な人であった」。これは律法の行いによる義を求めたユダヤ人と共通した態度ではないでしょうか。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。キリスト教は伝道の宗教です。人間の内発性によって生まれるのではありません。そのためにはわたしたち一人ひとりが「良い知らせを伝える者の足」とならなくてはなりません。こうした働きが加わることによって、いっそう「み言葉はあなたの近くに」が実現するのです。(高橋牧師記)

