内に注がれた油
「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」。 ヨハネの手紙一2.18-27

ヨハネの手紙を読んでいますと、「とどまる」という言葉が多く出てきます。上記の言葉もそうです。「初めから聞いていたこと」に対してです。それは初めて教会へ行って聖書の話を聞いたとき、あるいは洗礼を受けまさに今生まれたばかりの新しい生活に入ったとき。信仰のことはよく分かっていたわけではなくても、その頃が一番素直に聖書の言葉を聞くことができたときであったかもしれません。けれども変わることなく、いつもそこにとどまり続けることは決して易しいことではありません。わたしたち自身も変わっていきますし、世の中も激しく変化していくなかで、一つの場所にとどまり続けることは容易ではないからです。そもそも時代の一番先頭を生きているわたしたち21世紀の人間が、2千年前に書かれた書物に教えを乞うこと自体大きな現代への挑戦かもしれません。ある牧師がこう述べています。「わたしたち現代人にとって、『新しいものは古いものよりも進歩している』と信じないことは、実にたいへん困難なことである」。
そうした中にあって、わたしたちを支え導くのは、内に注がれた聖霊なる油です。「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」。その油とは、救い主イエス・キリストと関係しています。つまりキリストとは油注がれた者という意味で、メシアとも呼ばれます。わたしたちもまたキリストとは違った意味ではありますが、油を注がれた者なのです。だれにも等しく聖霊の賜物が与えており、その聖霊が慰め主、助け主となって、わたしたちの迷いの多い日々の生活を支え導いてくれるのです。
流れの激しいこの世の中にあって、それでもキリストにとどまり続けること。それはイエスも「わたしはまことのぶどうの木」で強調しておられます。信仰とは何か新しいことを打ち出す、積極的に行動するという面もありますが、このように「つながっている」「離れないでおく」という面も重要なのです。枝が幹につながっておれば、おのずと実を結ばせるように、信仰とは絶えずイエスにつながる、教会に連なることにおいて、そこから命の栄養を受けるという面があるからです。
「初心忘るべからず」と昔から言われてきました。この姿勢は大切なことなのですが、同時になかなか難しいものでもあります。その緊張感が長く続かない。慣れることも大切なのですが、同時にそのことで油断をしがちだからです。これは誰にも当てはまる弱点の一つではないかと思います。それは一人の生涯のみならず、家業などで商売や何らかの事業をしている場合にもいかに難しいかが見られます。これも古川柳の一つでしょうが、「売り家と唐様で書く三代目」という言葉があります。初代が苦労して築いた家屋敷も、三代目となると売りに出すことになる。商いをおろそかにし、中国流の書体などを凝って習った愚かさが、「売り家」の張り紙にあらわされていることを皮肉ったものです。一つの事業、決断を営々と築き上げていくことの難しさを示したものです。
「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」。長い信仰の生涯の中にあって、いろいろ迷うことがあっても、それにもかかわらずわたしにたち一人ひとりには、聖霊という油が内に注がれています。その聖霊がいつもわたしたちと共にあって、真理へと導き、反対に誤った道から救い出してくださいます。(高橋牧師記)

