いのちの糧

  「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」。 ローマの信徒への手紙14.13-23   

 ローマの教会にはさまざまな文化・宗教を背景とした人々がいました。ローマ人はもちろん、ユダヤ人からクリスチャンとなった人々などです。そうした人々は、食べ物に関してもいろいろな基準を自分に設けていました。ある食べ物は汚れているから食べない。別の人は何を食べても差し支えないと信じているが、そうとは考えず野菜だけしか食べないという具合にです。そして互いに非難しあっていました。  

 パウロは食べる人は食べない人を軽蔑してはならないし、食べない人は食べる人を裁いてはならないと言いました。律法に捕らわれない自由な人々は食べない人々を物事に捕らわれているとして軽蔑しやすく、反対に食物規定を厳格に守っている者はそうでない人を不信仰でだらしないとして裁きやすい傾向にありました。しかしそうであってはならない。そもそも食べ物そのものに、清いとか清くないというものはありません。どんな食物も神がつくられたものであり、神が与えられたものですから、それ自体汚れたものはないのです。それがパウロの信仰の基本です。ただ現実には、野菜だけしか食べない人とか、何でも気にせず食べるという人がいるのも事実でした。パウロはどちらの食生活が信仰に基づいているか、正しいかどうかの判断はしていません。そうではなく互いの違いを受け入れなさいと勧めます。大切なことは愛に従って歩んでいるかどうかです。特に捕らわれない自由な生き方は必要ではあるが、その自由を相手のために少し制限しなさいと言いました。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません」とあります。また「あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい」とも言いました。自分にとって善いと思っていることでも、他の人にとって、また全体の交わりにとっては、必ずしも同じように善いとはならず、反対に非難のもとになることすらあるからです。

 私たちは信仰において本質的なところでは一つです。礼拝を共に守り、そこで「使徒信条」を皆で一緒に告白しているようにです。他方、キリスト者としての生活のスタイルでは画一的である必要はありません。各自の考え方、生き方においては一人ひとり独自の判断に導かれていくものだからです。ただそうした違いを、自分とは違うからといって、相手を非難するのではなく、互いに認め合う、受け入れることが大切なのです。なぜならキリストは私のためだけでなく、あなたが批判している相手のためにも死んでくださったからです。そもそも何を食べるか何を飲むかといったことは地上の相対的なことに過ぎません。それを超えた神の国で重要なのは飲食でなく、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」です。だからこそキリストに仕える者は、神に喜ばれ、人々に信頼されるように歩んでいくのです。

 何事にもこだわらず自由生きている人、反対にそうではない人、そのどちらにおいても重要なのは各自信仰の確信に基づいて行動していくことです。内なる律法とでも言えましょうか。「確信」とは「信仰」と同じ言葉です。一人ひとりは神の御前で確信を持つこと。疑いながらではなく、その信仰の確信に基づいて自ら判断し、行動しなさいとパウロ勧めているのです。(高橋牧師記)