約束
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。 ルカによる福音書24.44-53

ルカによる福音書の最後のこの箇所、それは同時に使徒言行録の最初につながる箇所でもあります。イエスは復活の後、弟子たちに幾度かご自身を現されました。ここもその一つです。イエスについては「モーセの律法と預言者の書と詩編」、すなわち旧約聖書に記されているのですが、それを理解するためには聖霊の働きが必要です。「父が約束されたもの」とは、まさに聖霊のことです。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの目を開いた」とありますが、これこそ聖霊の働きにほかなりません。いくら立派な冷蔵庫や洗濯機があっても電気が入らなければ動かないように、同じように目には見えなくとも、人を心から動かすには聖霊が必要なのです。わたしたちは努めて聖書に親しむということを大切にしつつ、あわせて自分のかたくなな心が打ち砕かれ、心の目が開かれるよう、聖霊の働きを祈るべきなのです。
そのように聖霊の約束を語り終えてから、イエスは天に上げられました。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」ました。キリストの昇天です。使徒言行録によるとイエスは復活されてから40日間弟子たちにご自身を現され、それから天に上げられました。昇天の意義は十字架や復活に比べて、それほど重いものではないかもしれません。それでもこれは「使徒信条」の中、「天に昇り」と告白されています。いったいこの「天に昇り」とわたしたちが述べるとき、何を告白しているのでしょうか。ある神学者は「キリストの復活と昇天は、同一の出来事の、区別されなければならないが分離されてはならない二つの要素である」とその関係を述べています。昇天とは、わたしたちにとって理解できる空間(場所)から立ち去られたということです。肉体的、視覚的にイエスを見出しえた空間からいなくなったその最後です。しかし天に上げられたからといって、信仰者との関係が疎遠になったというわけではありません。反対にイエスがこの空間を昇天により超えられたことによって、むしろこの大地空間を満たしているのであり、聖霊を与えることにより、別の形で新たに関わろうとされているのです。昇天とはそれまでのイエスとの直接の関わりとは違った、その意味では一つの終わりではありますが、別の新しい関わりの始まりでもあるのでした。
イエスはもはや見える形でわたしたちと同じ空間にはいなくなりましたが、それに代わってこの世界には証し人が同じ重さで立てられています。弟子たちがイエスの十字架と復活の出来事の証人となったのです。それはわたしたちにも引き継がれ、一人ひとりの口から出る言葉、み言葉に聞き従おうとする態度、また福音の使者たるべき手や足を通してキリストが証しされていきます。聖霊は聖書と証人をこの世に立てることにより、キリストを示そうとしています。この世界にはもはや見える形でキリストはおられません。すべては証人の手や口や足にかかっています。さまざまな生活の場で、わたしたちが語る言葉や態度は、好むと好まざるとにかかわらずキリストの証人であることが期待されています。イエスはそのようにわたしたちを用いようとしておられます。イエスが地上から離れて天に上げられた、すなわち昇天とは、実はそのような証人としてのわたしたちの時の始まりでもあるのです。(高橋牧師記)

