心を一つにして

    「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」。  コリントの信徒への手紙一 1. 10-17 
                                   

 コリント教会にはパウロ、アポロ、ケファ(ペトロ)、そしてキリスト派といった内輪争いがありました。いったいこのような指導者を戴くグループにはどのような主張の違いがあったのでしょうか。内容は書かれていません。ただそうした指導者間の違いや分派に至るほどの争いがあったというよりは、教会の中にすでにある対立をパウロなどの名前を使って、それぞれに分かれていたのではないかと思います。つまりパウロやアポロの主張の違いではなく、自分たちの違い、さらには自分たちの主張を正当化するために指導者たちの名前やその権威を用いていたということです。そんな人間の愚かさ、未熟さを見る思いがします。

 しかもやっかいなことに、ここでは単に使徒たち指導者だけでなく、キリストもまたその自己主張の道具に用いられていたのでした。というのはこの4人は並列ではありません。最初の3人は当時の教会指導者ということで同じですが、最後のキリストは別です。キリストはその3人が、そしてわたしたちが信じている救い主です。そのキリストの名前さえもが一致のしるしとしてでなく、分派分裂の手段として、自己正当化の手段に用いられていたのでした。「わたしはキリストにつく」との主張です。確かにすべての信仰者がキリストにつき、クリスチャンであることは言うまでもありません。しかしここでの「キリストにつく」はそのような意味ではありません。  

 そこでパウロはキリストを前にした自分自身の、またペトロやアポロの小ささを語ります。その中で洗礼について触れています。パウロはそれほど多くに人々に洗礼を授けたわけではありませんでした。次のように語っています。「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」。この洗礼に対する消極的な表現は、指導者をかついだ分派の中にあるコリント教会だから言えるのであって、どこでも当てはまるわけではありません。なぜなら全世界に出て行って洗礼を授けなさいとは、主イエスの言葉だからです。

 日本の教会は儒教の影響もあるのでしょうか、横よりも縦の関係が強いと言われます。それを先生と生徒といった師弟関係で言い表されがちです。洗礼もそうで、誰々先生から洗礼を受けたという言い方が、何か特に権威があるような言い方でなされがちです。しかし洗礼とは個人的な関係ではなく教会の業です。師弟関係、それは一面美しい形ですが、他方では個人的なつながりのみに流れ、教会的なものとなりにくい面を持っています。そうした精神風土に注意すべきかもしれません。

 「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」とパウロは冒頭で語りました。もちろんわたしたちの働き、賜物は多様です。すべてが全体主義、権威主義国家の軍隊のように同じである必要はありません。いや、同じであってもなりません。けれどもキリストに結ばれた者としては、同じ思い、心を一つにすべきでもあります。どれだけ優れた言葉や雄弁なものであっても、自分に固執する主張は一致を妨げます。そうではなくこの世では愚かに見えるかもしれない十字架の言葉に基づいて、それに支えられて、教会の交わりは形作られていくことが重要なのです。(高橋牧師記)