涙はぬぐわれる
「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」。 ヨハネの黙示録7.9-17

ヨハネ黙示録は、天上の世界が幻を通してヨハネに示された内容です。主イエス・キリストが天にあって勝利者として神の右に座しておられる。けれども地上の教会、そこにつらなる信仰者は依然として途上の教会として、さまざまな試練や悩みに直面していました。現在も同じです。そうした中、ヨハネは天から啓示された勝利のイエスを指し示しつつ、地上を旅する教会の人々に希望と耐え忍ぶことを告げるのでした。
「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立った」。なつめやし、それは勝利を象徴する枝で、イエスがエルサレムに入城されたときにも、人々はこの枝を持って迎えました。ならば世界から集まった多くの白い衣を身に着けた人々とは誰なのでしょうか。それは14節で天上の長老が教えています。「彼らは大きな苦難を通ってきた者である」と。
「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る」。幕屋とは旧約時代に荒れ野での生活で用いたテントのことで、その中心には契約の書を納めた神の箱がありました。それゆえにこの「幕屋を張る」とは、単にテントを張るということだけにとどまらず、そこに神が住まわれるということでもあり、神の庇護のもとにおかれるということでもありました。だから彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはありませんでした。それはテントによって日陰ができ、人々が保護されるということ以上に、信仰者の命が究極的に守られるということでもあったからです。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」。通常小羊は羊飼いによって牧されるものですが、ここでは逆です。小羊が牧する。小羊によって信仰者が守られる。言うまでもなく、その小羊とはキリスト、その方です。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」とあるとおりです(詩編23.1-2)。
これらが最終的には次のようにまとめられています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21.3以降)。地上を旅するわたしたちには悲しみ、嘆き、労苦が絶えずつきまといます。涙もあります。しかしそうした数々の苦難に直面しながら、やがて訪れる主イエス・キリストによるまったき勝利・平安を指し示されながら、それを待ち望みながら希望をもって信仰者たちは耐え忍んできたのでした。そうした待望の信仰が、また現実の生活を変え、自らの日々の生活に力といやしを与えてくれます。それがここで語られているのです。すなわち「小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」。(高橋牧師記)

