主の僕モーセ
「わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。
出エジプト記6.2-13

神はユダヤの民を救うために、モーセを指導者として立てられました。しかしその働きは容易ではありませんでした。彼は自分の資質に自信が持てませんでした。口下手であることが重荷だったのです。それでも神はモーセと共にいてくださいました。それ以上の使命感を与えることによってです。
困難はそれだけではありませんでした。自分の同胞の民をまとめなくてはならないことがあったからです。民は奴隷による重労働によって新たな歩みを始めようとする意欲が失われていました。こういうことはわたしたちにもよくあります。自分の生活がうまくいっていない。仕事こと、健康のこと、家庭におけるさまざまな問題。そうした心配事を抱えていると疲れてしまって、とても信仰のことなど考えられなくなり、教会に来ることすらできなくなってしまうというような状態です。確かに朝から暗くなるまで奴隷としてレンガ作りなどの重労働を強いられた人々には、心身共に疲れ切ってしまい、何か新たに事を起こす力は残っていませんでした。それでもそのように疲れた人々を今一度奮い立たせ、エジプトの圧政に抵抗するようモーセは人々を整えなくてはなりませんでした。
このようにモーセは困難を抱えて出発することになりました。エジプト王ファラオとの解放をめぐる厳しい交渉、また希望や意欲をなくしてしまった同胞の民をもう一度奮い立たせなくてはならないという困難を抱えてです。この使命は今日の教会にも当てはまります。教会は使徒の時代より、内にあっては迫害や世俗の力から兄弟姉妹を守り整えつつ、外に向かっては伝道や正義を推し進めていこうとしていました。それは主イエスがまことの羊飼いであるように、羊を守りつつ、この囲いの外にいる羊をも導こうとされたのと同じです。それらを可能にするのは、人の力や資質によるのではなく、他ならぬ神の導きによります。その神とはまさに6節でご自身が述べておられます。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。そのように働かれる主の力によるものなのです。この主によってわたしたちも導き出され、救い出されました。たとえどのような意欲を失うほどの苦境に陥ったとしてもです。モーセにも、ユダヤの民にもさまざまな弱さがありました。その指導者の下にあって、つぶやきの多い人々を40年にわたって導かれたのはなぜでしょうか。根幹にあったのは神の契約であり、それに基づく約束でした。聖書の民は神の契約によって立てられた民でした。それは彼らがすぐれていたとか、能力があったからというのではありません。むしろそうした点においては逆で、どの民よりも増して人々は愚かで、貧弱でした。ただ主の選び、主の愛によって引き立てられたからなのです。そのように人々を支えたのが契約です。「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(7節)。この言葉は現在の教会、そしてそこに連なるわたしたち一人ひとりにも当てはまります。神はその民を選び、御自分の目の瞳のように愛されました。その導きは今もわたしたち一人ひとりにも力強く働いているのです。(高橋牧師記)

