呼びかける声

    「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。  イザヤ書40.1-11

 預言者イザヤは語りました。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らになり、狭い道は広い谷となれ」。荒れ地、でこぼことした道、それは非常に歩きにくい道です。それならば現代の荒れ地とはどこを、あるいは何を指しているのでしょうか。その荒れ野に道を備えるとはどのような備えなのでしょうか。

 パレスチナやウクライナの惨状を思います。せっかく建てた家が破壊され、瓦礫の山と化す。それらが歩行の妨げにもなっています。これから厳しい冬に入るだけに、住民は実に悲惨な生活が強いられます。そこからの再建を考えると、気の遠くなるような年月を想像せずにはいられません。そこで生きている人々の気力もくじけてしまうのでは。それは地震など災害にあった人々も似ています。そこまでいかなくても、荒れ地は至る所に存在しています。物価高騰による生活苦、健康が脅かされている人々が多く生まれている現状、それもまた荒れ地、でこぼこ道です。

 主イエスの前を歩んだバプテスマのヨハネ、彼はここイザヤが語るところの「荒れ野で叫ぶ声」でした。そこで彼は人々に悔い改めを訴えました。そのように主張し、わたしたちの心の中にある荒れ地、人間の目にはどうしようもないように見え、希望さえ見出せなくなってしまうような険しい道であったとしても、その荒れた道を広く、平らにして、そのようにして主をお迎えするにふさわしい状態にすることを訴えたのでした。

 イザヤはさらに語りました。すなわち人間には限界があるけれど、神の言葉は永遠だと。こうです。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。イザヤは人間を一時的な野の花・草にたとえ、それに対して永遠に立つ神の言葉を向き合わせています。確かにそのとおり、人間には限界があります。過ちも犯します。現在ノーベル賞の授賞式が行われていますが、そこは政治、経済、科学、文学などあらゆる分野での最高の知性の場です。それでも究極的にはそれらが神にとって代わるものではありません。人はどこまでも一時的であり、罪の中で迷い、不安定さにおいては、まさに野の花のように移ろいやすいものだからです。

 そういう意味では、この世界は飼い主のいない羊の群れ同様です。羊は羊飼いなしには生きていけません。このような世界にまもなく訪れようとしているのが、まことの羊飼いであるイエス・キリストです。迷いの多い人間の救い主となるためです。わたしたちが今直面しているさまざまな悩み、心配事、またこれからどうなるかといった思い煩いの中で、今日も明日も生きていこうとしています。そのような限界のあるわたしたちではありますが、とこしえに堅く立つ神の言葉を生きる導き手とし、さらには何よりもわたしたちと同じ人として、まことの羊飼いとして共に歩まれたイエス・キリストを心からお迎えできるよう備えていきたいと願います。(高橋牧師記)