力ある言葉

    人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」。  マルコによる福音書1.21-28

 イエスが安息日に会堂へ入って教え始められたときのことです。人々はその教えに非常に驚きました。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからです。一般に権威という言葉は、あまり良い意味で使われていません。「あの人は権威的だ」というように、何か上から目線で人に接するような態度です。もちろんその逆もあります。上記の箇所がそうであり、もっと有名なところではマタイ福音書の最後にある弟子たちの派遣の箇所ではなかと思います。そこでイエスが言われました。「わたしは天と地の一切の権能(権威)を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28.18-19)。「権威ある者としてお教えになった」とは、このような上から授けられた力に基づいていたということでした。

 それは教えだけにとどまりませんでした。一つの出来事として現されたからです。このとき、同じ会堂に「汚れた霊に取りつかれた男」がいました。その心身に重荷を抱えた男がイエスに向かって叫びました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。イエスの宣教は目に見えるところだけでなく、このように目に見えない霊の世界、心の中の深い闇のところにおいても新たな戦いがなされていたのであり、その結果汚れた霊はこの男から出ていき、彼はいやされました。  

 そこで一同はまたも驚いて言いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」。イエスは一般の人々と同様ユダヤの会堂で、律法を中心とした旧約聖書に基づいて教えられました。ただその教えが従来の律法学者のようにではなかったのです。それが「権威ある新しい教え」として聞かれたのでした。それは律法学者たちと違ってまったく新しいことを教えられたということではなく、その語る言葉が具体的に何かを呼び起こす力をもっていたからであり、それによって人々の心が動かされ、病がいやされたからでした。

 今週からまた選挙が始まります。そこでは候補者がいろいろなことを語ることでしょう。またテレビ等では解説者があれこれ分かったようなことを話します。しかしわたしたちのとって重要なことは、多くを語ることではなく、語ったことが実現することではないでしょうか。神は「光あれ」と言われたとき、確実に光が生じました。またイザヤも次のように言いました。「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」(55.10-11)。そうです。神は語られると同時に、その語ったことが実現することにおいて権威があったのです。「人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く』」。神が言われたことは必ず実現する。それが力ある言葉としてわたしたちを支え、また生かすのです。(高橋牧師記)