シモン、行くもん!

    「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた」(マルコ1:17)
                                         エレミヤ書1章4~10節
                                         マルコ福音書1章14~20節

 自分の人生を詳細に振り返ることは、滅多にないのではなかろうか。私は先月その体験をした。或る機関紙の人物紹介に載ることになって、インタビュアーから、思いがけず仔細な質問を受けた。
 それを通して、すっかり忘れていたことや思い出したくなかったことまでがよみがえった。と同時に、これまでなした大きな決断は、自分の決断というより、何かの力に押されたかのような否応ないことだったと気づかされた。(これは私一個人の出来事なのだろうか?)。

 その体験の一つを紹介する。2011年春に、大阪・釜ヶ崎の人たち7人が突如逮捕される事件が起こった。そのうちの一人が、摂津富田教会の大谷隆夫牧師だった。
 当時石橋教会牧師だった私は、関西労働者伝道委員会の共同代表を務めていた。あと二人の方は兵庫教区の牧師だったから、大阪にいる私が関わるしかなかった。大事件が起きたにも関わらず、正直、厄介なことになったと後ろ向きだった私。いやいや出かけた釜ヶ崎の事務所で、これは「すぐに声をあげなならん」ことと、一人の労働者から意見を言われた。まさにその通りだった。ようやく腹をくくった結果、この事件に関わることを通して、多くの大切なことと友を得ることになった。私にとっては神の導きだった。

 本日のテキストは、シモンらガリラヤ湖の4人の漁師たちがイエスの弟子とされた箇所。マルコは簡潔な記述で「すぐに」招いたイエスと「すぐに」応じたシモンらを描いた。「すぐに」は、マルコが好んで用いた表現。
 本当はもっと漁師たちのその折の心情等、詳細に記述しても良かったかもしれない。漁の道具や人間関係などを直ちに捨てることは、尋常ではありえない。が、彼らはすぐに応じた。
 「すぐに」とは、時間的な内容ではなく、心の変化のことを指す。漁師たちの思いも多々あり、個々の決断もあっただろう。が、マルコは、それらに増してそれを促した誘いの言葉がイエスから発されたことを伝えたかったのだ。
 それまでの生き方を捨てる大きな決断をなすために、通常は人間の決断、努力が不可欠のようにも思われる。
 だがマルコはそんなことを書かなった。それよりもイエスからの呼びかけが大きかった。人間の思いを超える力が働いて、彼らは従うことになったのだ。
 一方、本テキストの先(29節から)の出来事を読むと、イエス一行は、シモンの家を訪れている。床にふせっていたしゅうとめをイエスは癒したという。この出来事、想像をたくましくすれば、シモンの行く末を案じて寝込んだしゅうとめが、イエスと出会って安心して回復した―と読めないか。
 いずれにせよ、真に必要なものはいつも与えられ、人間的・この世的な不安を取り除かれて、この先のシモンの旅路があった。「シモン、行くもん!」である。
 「シモン、行くもん」とは、他の弟子たちのみならず、私たちも同じ旅路だろう。神の招きとは、自分(人間)を超える力である。その時、「すぐに」従えますように!(横山順一牧師)