新生

    「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」。  マルコによる福音書1.9-11

 イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。洗礼とは新たに、しかも根本的、本質的に生まれ変わるものです。人間は自分自身の力ではそれができません。自分の意志や決断では、たとえどれだけ真面目なものであったとしても新しく生まれることができない。一年の計は元旦にありと言われ、そこでいろいろと計画や決意をなしても、その多くが3日もたてば色あせてしまい、またそういう自分を許してしまう、妥協してしまうのが現実です。  

 人間は生まれながらにして罪の中にあり、思いや行いにおいて神に喜ばれることができないばかりか、むしろ本質的に敵対する傾向をもっています。するとここで重要な問いが出てきてきます。なぜイエスが洗礼を受けられたのだろうかという問いです。イエスが洗礼を授けられるならよく理解できますが、イエスが洗礼を受けられるということは、洗礼の意味からいっても矛盾のように感じます。イエスは洗礼において洗い流されるべきわたしたちのような汚れがありません。それならば彼の洗礼にはどのような意味があるのでしょうか。これについては十字架の死と一緒に考えるのがふさわしいかもしれません。イエスは生涯の終わりで、十字架につけられました。あのとき十字架につけられたのは3人で、内2人は明らかに犯罪人でした。3人目がだれになるかというとき、イエスの他にもう1人の人物がいました。バラバという犯罪人です。現実的な法の裁きによりますと、この場合バラバが当然刑の執行を受けるはずでした。ところがそれが人間の混乱と罪のなかで逆転しイエスが3人目の人物となってしまいました。そしてバラバは放免されます。イエスがバラバの身代わりになったということであり、さらには本来わたしたちが負わなくてはならない十字架の道を、イエスが代わって負ってくださったということでもあります。イエスは十字架につながる何の罪もなかったにもかかわらず、自ら罪人の一人に数えられることを良しとし、そのことによってわたしたちの罪を背負ってくださったのです。洗礼も同様で、イエスには本来水の中に入って洗い流さねばならない罪がなかったにもかかわらず、あえて罪人の一人として数えられることをいといませんでした。

 罪のない神の子イエスご自身が洗礼を受けるために、ひざまずいておられる。わたしたちのために、わたしたちの弱さや重荷を担い、わたしたちと共に歩まれるためにです。なんと謙虚な姿ではないでしょうか。洗礼者ヨハネの言葉を借りれば「かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(7節)と言うその方イエスが、ヨハネの足もとに罪人の一人としてかがんでおられるのを前にして、ヨハネのみならず、人はどのような態度を取ればよいのだろうか。それに対しわたしたちの目はなんと上の方ばかりに向けられているかと思います。イエスはわたしたちの足もとにひざまずいておられます。聖霊が鳩のように降ったのはまさにその時でした。その時とは神の子が罪の中にある人々と一緒に洗礼を受けられた時です。わたしたちの根本的な出発は、この自らが罪人の一人としてひざまずくイエスの姿に求めるべきなのです。上ではなく、足もと、すなわち奴隷のような自らを低くされた謙虚さの中に。(高橋牧師記)