エデンの園
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」 創世記2.4b,15-25

わたしたち人間は、土から造られた者だと聖書は語ります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。人間は土の塵から形づくられたようにもろくはかない存在であるということ。そうした面を持ちつつ、同時に神から命の息を吹き入れられた者として生かされているのです。
人間はまた「善悪の知識の木」に対する責任が与えられています。その木とはどこにあるかといえば、園の中央でした(9節)。言い換えれば園の端っこではないということです。「園のすべての木から取って食べなさい」。人間にはすべてのことが許されている。そしてできるかもしれません。しかし園の中央という一番中心の場所に手を出してはならない。そこは神の場所だからです。それは人間が決して中心になってはならない、自分たちの知が中心になってそれに溺れてはならないということではないでしょうか。人間には圧倒的に大きな自由が与えられています。けれども神の戒め(約束)を無視してまでの自由は益にならず、かえって死を招くというものです。ここに神の前における人間の自由と限界が示されています。
人間は人との関係で生きる存在でもあります。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(18節)。そこで神はいろいろな生き物をお造りになり、人間にふさわしい相手ができるかどうかご覧になりました。ところが「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(20節)とあります。近年、少子化・核家族化に伴い、ペットが家族の中で大きな位置を占めています。もうペットではなく家族の一員です。そうした中にあって、最終的に自分に合う助ける者は同じ人間でした。ここに交わりの中における人間という面が出ています。人を傷つけたりするのは人間ですが、同時に人をいやすのも人間なのです。いずれにせよ互いに支え合う相手を見出して共に生きるということでしょう。それが交わりにおける人間です。
人間本来のあるべき姿は、自然との関係の中にもあります。それが第3点です。15節に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」と記されています。この「耕す」には、「仕える」という意味があります。決して自分の思いどおりに自然を支配してよいということではありません。「エデンの園」は、楽園か何かを想像してブラブラとして美味しい物を食べて毎日楽をして生きるのではなく、汗を流して、自分に与えられた務めを果たしていく場所なのです。冒頭で述べたように、人間と土は深い関係にあります。従って人間が自然に向うとき、土に接するとき、それある意味では自分の一部に接することでもあります。人間とは何なのか。どのように歩むべきなのか。まだ罪のなかったエデンの園における人間の姿を見るとき、そしてそこにおいて自由と責任が与えられていることを思うとき、それは今日のわたしたちに対し、信仰者として生きる上で、新たな問いかけとなるのではないでしょうか。神の前における人間、そして交わりに支えられて生きる人間としての本来の姿という点においてです。(高橋牧師記)

