荒れ野に道を備えよ
「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」 イザヤ書40.1-11

預言者イザヤは祖国への帰還に二の足を踏んでいる人々を励まします。「荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い道となれ」。荒れ野とは、言うまでもなく砂漠など荒れた地です。しかも長い旅路。それにもかかわらずイザヤは、彼らに希望を述べるのでした。
現代にも荒れ野はあります。それは石がゴロゴロとした荒れた道という意味ではありません。マザーテレサがかつてこう言いました。愛の反対は憎しみではなく、無関心である。この無関心、これは現代の荒れ野ではないでしょうか。また正規と非正規雇用による格差、そこから生まれる生活苦の問題、高齢化に伴う命の不安定さ、そして孤独。こうした問題もまた現代の荒れ野です。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。これはすべての人間の姿を示しているだけでなく、地上のいかなる強大な権力であっても、魅力的な思想であっても、同じ運命をたどることに変わりありません。そこで唯一とこしえに立つものは、ただ神の言葉だけなのです。
力を落としている人々に向かってイザヤは言うのでした。「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ」。見張りが高い山に登って見ると、遠くからこちらに向かって進んでくる一群が見えるではありませんか。さらによく目を凝らして見ると、先頭に立って進んでくるのは何と主なる神ご自身でした。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。このように困難な祖国への帰還の先頭には、主ご自身が立っておられたのです。これは打ち沈んだ民にとって大きな力であり希望でした。それを良い知らせとイザヤは語っているのです。「良い知らせ」、それはほかならぬ福音のことであり、小羊をふところに抱いてこちらに向かっているのは、まさに主イエスご自身なのでした。
イエスの前を歩んだバプテスマのヨハネ、彼は「荒れ野で叫ぶ声」として人々に悔い改めを叫びました。現代のわたしたちの社会にある、また心の中にある荒れ野。しかし人間の目にはどうしようもないように見え、希望さえ見出せなくなってしまうようなことがあったとしても、すでに、そして確実に向こうから救いが近づいているのです。アドベントとは到来(来る)という意味です。向こうから来るのであって、自分の力で救いを得ることではありません。信仰者はその高い山にすでに今立っています。もう暗い谷間、ほとんど光が射さない場所にいるのではありません。まだその救いの到来は米粒のように小さくしか見えないかもしれません。けれども確実にこちらに近づき大きくなっています。どのように心がくじけて意気消沈するようなことがあっても、わたしたちはこの信仰という高い山に登り、遠くへ目を向けることによって、そこから希望と力を得ることができるのです。(高橋牧師記)

