力ある言葉

「人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く』」   マルコ福音書1.21-28

 イエスは新たな宣教の使命を託され、最初にカファルナウムにやって来ました。そして安息日に会堂に入って教えられました。そこでどのようなことを語られたのでしょうか。それについては記されていません。ただそこで礼拝を共にしていた人々の反応が記されています。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。  権威という言葉は、「お父さんは権威的だ」などというように、あまり良い意味で使われていません。聖書の中にも「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません」(一ペトロ5.3)といった言葉があります。もちろんその逆もあります。それが上記の権威であり、それは神から授けられたものであって、地上的な学問や権力に基づいたものではありません。 

 教えだけにとどまりませんでした。このとき、同じ会堂に「汚れた霊に取りつかれた男」がいました。イエスはこの心身に重荷を負った男の病、苦悩をイエスは癒すことにより、その教えが、また御言葉が出来事となったのでした。

 そこで一同はまたも驚いて言いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」。イエスは普通のユダヤ人同様に会堂で、律法を中心とした旧約聖書に基づいて教えられました。その教えが「権威ある新しい教え」として聞かれたのは、語られたことが出来事となったからです。詩編の中に「御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます」とあります(119.130)。それは聖霊の働きによって御言葉が具体的に動き出すからです。

「権威ある新しい教えだ」と人々が驚嘆したのは、律法学者や他の人々と違ってまったく新しいことを教えられただけでなく、その語る言葉に 何かを呼び起こす力があったからであり、それによって人々の心が動かされ、病が癒されたからでした。

 清水眞砂子さんという翻訳者が、「幸福に驚く力」という本を書いておられます。その中でこんなことを言っておられます。「現在のような社会では、物珍しく刺激的なことが善とされ、平凡で退屈なことが悪とされがちだが、わたしたちの人生は、ほとんどが凡庸で退屈なんじゃないでしょうか。そんな中よく見ると、いつもすてきなものがあって、人生まんざらではないな、生きるってまんざらではないなと思わせてくれるものがあります」。それが日常の中にある幸福に驚く力だというのです。それこそがまさに日々の生活の中にある奇跡、たとえどんなに小さくともわたしたちの生活の中にあるものなのです。聖書を読んでいるとき、時としてある御言葉が心に留まることがあります。イエスの教えが権威ある新しい教えなのは、その語られた言葉が必ず実現するからです。病を癒し、困難を乗り越えさせる力ある言葉、それがどのような小さな事柄であっても、物事を好転させる力となり、わたしたちを励まし、立ち上がらせてくれるのです。(高橋牧師記)