待つこと、そして希望を

「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次の穂、そしてその穂には豊かな実ができる」   マルコ福音書4.26-29

 今日、ケータイの普及はすさまじい勢いで伸びています。それによって生活のあり方もずいぶん変わってきました。たとえば何かの都合で待ち合わせの時間に遅れそうなら、そこから相手のケータイに電話を入れることができるようになりました。それによって相手はたとえ時間が遅れても安心し、その間に別の用事をしたりすることができるようになりました。ケータイのない以前はそうではありませんでした。日本語で「待つ」という言葉を調べてみますと、実に多くの関連語があることに気づきます。たとえば「待ち遠しい」「待ちあぐねる」「待ち構える」「待ちぼうけ」「待ちきれない」「待ちくたびれる」等々。それに対して、現在は待たなくてよい社会になったのです。別の言い方をすれば、待つことができない社会になったことでもあります。待てない、それが苦手になったということです。

 「成長する種」の話は、待つことの大切さをわたしたちに教えています。イエスはこう言われました。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。ここには大切な言葉が二つあります。一つは種は芽を出して成長するが、「どうしてそうなるのか、その人は知らない」という言葉です。茎が伸びるところ、葉が大きくなるところ、その瞬間を見たことがあるでしょうか。夜昼、寝起きしているうちに、知らないうちに、ごく自然に成長しているのです。わたしたちには気づかないうちに。まさに「どうしてそうなるのか、その人は知らない」。

 もう一つは「土はひとりでに実を結ばせる」という言葉です。確かに種を蒔く、水をやる、雑草を抜くなどの手入れは必要です。コリントの教会に向けてパウロは言っています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(一コリント3.6-7)。けれどもそれ以上のことは、もう周りの者がやることでも、できることでもありません。成長させてくださるのは神だからです。春に蒔いたものは、秋まで収穫を待たねばならないように、人間の成長もあせったり、手を入れすぎたりするものではなく、内から伸びていこうとするその成長を補佐し、その成長をじっと、しかも希望をもって待つことなのです。

 種は芽を出して成長するが、わたしたちはどうしてそうなるのか知らない。土はひとりでに実を結ばせる。もちろんここに語られていませんが、目に見えない神が、その成長を支え導いてくださっているということです。信仰の世界、教会の成長は人が思った通り、また希望した時に成長を遂げるわけではありません。さまざまなかたち、早い成長もあれば、ゆっくりとした成長もあります。しかし周りの者はあせったり、いらだったりするのではなく、成長の源である神を信頼し、希望を抱いて待つことが大切なのです。苦難は忍耐を生む。それは待つことでもあります。そしてそこから希望が生まれます。それゆえ自分にできる日々を業に励みながら、成長へと導いてくださる主に委ねていきたいと願います。(高橋牧師記)