種をまく人

「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」   マルコ福音書 4.1-9

 ある人が種まきに出ていきました。最初の種は道端に落ちたので、鳥が来て食べてしまいました。次の種は土の少ない石地でした。種は土が浅いのですぐに芽を出すが、日が昇ると焼けて枯れてしまいます。その次は茨の中に落ちた種です。同時に茨も伸びて覆いふさいでしまうので実を結ぶには至りませんでした。最後は良い土地に落ちた種、それは本来まかれるべき土の上であり、そこで種は芽生え、育ち、何十倍の実を結ぶのです。

 これは後の箇所で説明がなされていて(13節以降)、それによると道端の種とは、聖書の話を聞いても、すぐにサタンが来て心にまかれた御言葉の種を奪い去ってしまうことでした。他のことで頭がいっぱいだったのでしょうか。二つめの石地は、「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」とあります。耳の痛い話です。いわゆる長続きしない。感動や喜びがあっても、どうしてもその場限りのものになりがちなのです。三番目の茨の中、「この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」とあります。要するに気が多いのです。あれもしたい、これもしなくてはならない、またこれもできるといって自分の家が物でいっぱいになるように、心の中が多くのものでいっぱいになってしまう。わたしたちも御言葉を聞くだけでなく、心の中の茨をあわせて取り除き、風通し良くすっきり整理しなくてはなりません。最後の四番目に初めて成長する種が語られ、その種は芽生え、育って実を結ぶのでした。それでも最初の三つの種が実を結ばなかったように、成長には多くの困難が伴います。それは外から来る困難、また私たち自身の内から来る誘惑がその成長を妨げるからです。しかし最終的には種は成長するのでした。なぜならその種をまく人は、イエスご自身だからです(讃美歌234)。

 実際の種がそうであるように、信仰の種もだれの中でもまことに小さな、吹けば飛ぶように不安定で脆いものです。そのように私たちは自分の小ささや弱さを嘆きます。マザー・テレサが「今日の最も大きな病は、自分は求められていない人間なのだという思いです」と言いました。だれからも必要とされていないという思い。自分の無力さ。今日本には、イギリスに次いで孤独担当大臣というポストができました。それほど自分は孤独だと思う、また実際孤独・孤立している人々が多く、社会問題となっているのです。引きこもりのような状態です。特にコロナ禍にあって、そうした孤立化がいっそう顕著になっています。

 自分はだれからも声をかけてもらえない。そうした小ささに嘆くことはありますが、それにもかかわらずイエスが種をまく人として、御言葉の種、救いの種、他者と共に生きようとする愛の種をまいていてくださいます。初めは小さいかもしれない。ぎこちないかもしれない。けれどもその種は必ず芽生え、育って実を結びます。その種は私が自己責任において育てていくのではなく、主イエスがまき、育ててくださるからです。(高橋牧師記)