向こう岸に渡ろう
「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」 マルコ福音書 4.35-41

イエスはガリラヤ湖北のカファルナウム周辺で伝道しておられ、その後、弟子たちに向こう岸に渡ろうと言われました。向こう岸とは、次の5章に出てきますゲラサ人の地域で、カファルナウムから南下した反対側の地方です。ところがその湖で嵐に襲われるという予期せぬ出来事に遭いました。しかしまた嵐という逆風を通して、弟子たちの信仰が強められる機会ともなりました。
「向こう岸に渡ろう」とは20㎞先の村へ行こうというだけではなく、今の場所を離れようということでもあります。言い換えれば、同じ場所にとどまっていないで、たとえ今の場所が慣れ親しんだ居心地の良い場所であったとしても、そこから離れてイエスが指し示す場所に向おうということでもあります。そして新たな課題に挑戦しようする。今の場所を離れること、そしてこれからどうなるか分からない未知なる方向へ行くのは気の進まないことかもしれません。当然そこでは様々な困難が待ち構えています。けれどもわたしたちはそうした試練を通して、それまで気づかなかった恵みにあずかることでもあります。新たな自分を発見ことでもあるのです。自分を固定化してしまうのではなく、またあきらめてしまうのでもなく、イエスの言葉を信じて進む。それは今の場所を離れることから始まります。
果たして弟子たちの航行には困難が生じました。激しい突風が起こり、舟が波をかぶって水浸しになり、沈みそうになったのです。弟子たちはイエスに訴えました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。彼らのあわてようは、よほどの嵐だったに違いありません。けれども彼らがあわてたのは、突然の嵐の大きさということだけではありません。彼らのそれまでの漁師としての経験が役に立たなかったからでもあります。想定外の出来事です。そうしたとき人はあわて、心取り乱しがちになります。嵐が突然襲ったからというだけではなく、自分たちの経験を超えた逆風だったからなのです。
その嵐を前にした弟子たちに対し、イエスは眠っておられました。イエスの眠りは平安の象徴と捉えることができます。反対に眠れないとはどういうことでしょう。それは不安のしるしでもあります。人は何らかの不安、深刻な悩みを抱えていますと、睡眠に影響を与えます。イエスのこの極端とも思える嵐のさなかでの眠りには、どんな厳しさに遭遇しても、神に対する平安、信頼が揺るがないことを示しているのです。
ガリラヤ湖に浮かぶ嵐の中の舟、それは教会であり、わたしたちの姿でもあります。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とイエスは言われました。そのように信仰と不信仰が入り混じる日々の生活。神への信頼、そして神に自らを委ねることが少なければ少ないほど、それだけ神以外の周りのことが気になり、恐れ、それに振り回されていく。その中で自分自身をさえ見失いがちです。わたしたち信仰者の生涯とは、この「向こう岸に渡ろう」と言ってイエスが導き、固く支えてくださる、そのような旅路なのです。(高橋牧師記)

