荒れ野の誘惑

「霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」   マルコ福音書 1.12-13

 荒れ野ではイエスを巡って他の存在、すなわち霊、サタン、野獣、天使が出てきます。最初は霊、イエスが荒れ野に行かれたのは神の霊に送り出されたからでした。荒れ野は比ゆ的に用いられることがあります。何か思うようにいかない不遇な環境、そうした時代を荒れ野と語るようにです。荒れ野は欠乏の場所であり、人間の貧しさや不信仰、元気そうであってももろく崩れていく、そのようなところなのです。けれどもそこへ行くのは聖霊の働きでもありました。

 荒れ野は確かに不毛の場所ですが、そうした面だけではありませんでした。荒れ野は人々が住む町とは違って何もありません。それゆれ余計なものに邪魔されず、物事がよく見える場所でもあります。人々は荒れ野がもたらす苦難を通して、また苦難の只中で神の恵みに出会うことがありました。「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見いだした」と旧約の預言者が語る通りです。信仰の出会いは都市にではなく、荒れ野にもあったのです。荒れ野で活動した洗礼者ヨハネも同様です。都会では見えない神のさまざまな恵みがよく見える場所でもありました。 

 もちろんそこはサタンの誘惑を受けるところであり、また野獣の住む場所でもあります。イエスが40日間送り出された荒れ野とは、そのように野獣に取り巻かれている場所でした。危険で恐れに支配され、孤独でした。

 今日こうした荒れ野とはどこに相当するのでしょうか。ロシアによるウクライナ侵攻から1週間以上が過ぎました。この世界ではいつもどこかで紛争が起きていますが、今回は大国が絡んでいるだけに規模が通常ではありません。さらには原発が危険にさらされているだけに、いっそう深刻です。多くの人々が傷つき倒れ、家を失い、避難民として寒さの中を逃げ惑う。まったく痛ましいかぎりです。このような状態もまた現代の荒れ野です。都会、田舎にかかわらず、今日でも獣が住む荒れ野は至るところにあり、恐れ、危険、そして孤独があるのです。それでもその荒れ野には天使たちもいました。そこで天使たちが仕えていた。悪魔が働くと同じように、天使たちもイエスに仕えていたのでした。

 わたしたちもこれから3月いっぱいを、荒れ野の40日として歩んでいきます。それは悪魔の攻撃にさらされる旅であり、今もさらされています。しかし同時に天使たちにいつも守られた旅であることを忘れてはなりません。さまざまな重荷を負いつつも、他方には祝福があります。さらに言えば、荒れ野という厳しい場所を通して、その只中でキリストの恵みに出会うときでもあるのです。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」(一コリント10.13)。主イエスを見上げつつ、わたしたちも同じように信仰の道を歩んでいきたいと願います。(高橋牧師記)