仕えられるためでなく
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 マルコ福音書10.32-45

先週甲子園での高校野球は終わりましたが、大会で歌われる曲に、「栄冠は君に輝く」があります。その歌詞の中に、「しゅろの葉」が出てきます。しゅろの葉は、栄光のシンボルだからです。教会でも来週は「棕梠の主日」です。それもまたイエスが勝利者として迎えられるところから来ています。 イエスが自らの受難を語られた後、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスのもとに進み出て言いました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねられると、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。イエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」。さらに言われます。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。ここでの杯とバプテスマ、それは受難、死を意味したものでした。
「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」。それならわたしたちはどうでしょうか。分かっているのでしょうか。今日の賢明で慎ましい信仰者たちは、ここまであからさまな願いを神に求めることはないかもしれませんが。 そこで次のように言われました。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている……あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。
先日、茨木市にあるキリシタンの史料館に行ってきました。展示物はそれほど多くはありませんが、キリストの十字架像があり、そこに「ヴィアドロローサ」と書かれていました。十字架への道という意味です。
この世界には二つの道があります。一つはイエスの時代にあったローマへの道です。「すべての道はローマに通ず」という言葉があるように、当時のローマ帝国には、ローマを中心に世界の国々につながる道路が行き渡っていました。ローマが世界のあらゆる国々へ軍隊を送って征服し、戦利品や奴隷を積んで意気揚々とローマへ凱旋した道です。人々はこの道を歩む人を「偉い人」「いちばん上」と考えていました。この道で物質欲や権力欲などさまざまな欲望を満たすため、血で血を洗う醜い争いをしていました。その道は現在も至るところにあります。
この世界にはもう一つの道があります。それがイエスの歩かれた十字架の道(ヴィアドロローサ)です。それはゴルゴタの丘まで十字架を背負って歩まれた道です。そこには病める者、貧しい者、虐げられていた人々が互いに身を寄せて集まっていました。
この世界はどれだけ多くの人に仕えられるかによって、偉い人の判断がなされます。しかしキリストの世界では、どれだけ多くの人に仕えるかが重要であることを教えます。まことなる神が僕として人々に仕え、最後には十字架においてわたしたちの罪を担われました。これこそがもっとも偉大な道であり、いちばん上となる栄光の道であったのです。(高橋牧師記)

