ゲツセマネの祈り
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 マルコ福音書14.32-42

「棕梠の主日」を迎えました。受難節最後の1週間の始まりです。イエスがエルサレムへ入られたとき、人々は彼を歓迎して自分たちの上着や棕梠の枝を道に敷きました。ところが人々は数日後にイエスを見捨て、十字架につけよと狂い叫ぶ群衆ともなりました。弟子たちとて同じでした。死に至るまで忠実であろうとした彼らが、最後にはイエスを見捨てて逃げ去ってしまったからです。そのように棕梠の主日から始まる1週間は、十字架の道をひたすら進むイエスを軸に、人々の気持ち、人々の信仰が大きく揺れ動くのを映し出すのでした。
イエスはゲツセマネに行き、「父よ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。「わたしが願うことと、神の願うこと」、この二つの願いをうまくつなぐことは難しいどころか不可能です。人間は御心が行われますようにと祈りつつ、自分の願いもしっかり持っているからです。人はどこまでも自分本位であって、それは他人に対してだけでなく神に対してさえ頑固です。結局自分の願いが満たされる限りにおいて神の御心に従うものであり、そこに不一致が起きると、人は最終的には自分を守って神(信仰)をさえ捨て去るのです。
現在のウクライナにおける惨状に心を痛めています。前にテレビでウクライナから家族を一度ポーランドへ連れていき、そこに家族を置いてから、再びウクライナに戻る父親の姿がありました。祖国のために戦うためです。別に召集令状が出ているわけではなく、あくまで自主的な判断で戻ったようです。聖書に、善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれないという言葉がありますが、ウクライナ志願兵の行動はこれに似ています。それに対して、キリストの苦難と死、それはこの世的に善い人であろうがなかろうが、すべての人のための死であり、わたしたちが敵であったときでさえ、イエスはご自分の命を捨ててくださいました。これこそが神の愛に他なりません。
本来人間が当然いるべき場所(罪人として裁かれる)にイエスは代わりに立ってくださいました。イエスは不正な扱いをお受けになることによって、ご自身の正しさをあらわされたのです。わたしたちに代って苦しむことにより勝利されました。これこそがイエスによる救いであり、棕梠の枝を差し出されるにふさわしい栄光の務めです。
「この杯をわたしから取りのけてください」とイエスは祈られました。それはイエスの願いであり、わたしたちも同様です。しかし次に「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。人間的な思いでなく、神の意志が行われますようにというものです。「主の祈り」の第三番目でわたしたちはいつも「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈っています。その御心に強く抵抗するわたしたち罪なる者に代って、イエスはゲツセマネで祈り、その祈りの通り神の御心に適うべく十字架の道へと赴かれたのでした。(高橋牧師記)

