開かれた命の扉
「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。」 マルコ福音書14.32-42

「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と彼女たちは互いに言い合っていました。イエスの体が横たわる墓の入り口は、大きな石で封じられていたからです。とても彼女たちの力で動かすことはできませんでした。もっともこの心配や不安の言葉は、必ずしも墓の入り口にあった石を物理的に動かすという困難さを指しているだけではなく、別の意味を含んだ嘆きのようにも聞こえます。墓の入り口をふさぐ石、それはこちら側の生と、墓の中の死とを分ける石でもあります。命と死を分断する、そんな重い石。それはだれにも動かすことができないのです。
すべての病院にあるというわけではありませんが、そこには霊安室があります。病院は人をいやすところですから、明るい正面のロビーから入って、退院のときもその玄関から会計を済ませて出ていくものです。また出ていくことができるものです。しかし幾人かは正面から入っても、そこから再び出ることができず、たいていは地下に設けられた霊安室を経て出ることになります。どんな最新の技術を持った病院であっても、すべての人が入ってきたのと同じように、正面玄関から退院することはできません。死、それは人の力ではどうすることもできない冷厳な事実であり、命との間を隔てる重くて大きいな石のようなものなのです。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。
「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」と聖書は記しています。そうです、石は「既に」わきへ転がされていたのです。目を上げて見たときにです。人は困難な壁に突きあたったり、悲しみに打ち沈んだとき、どうしても目を伏せがちになります。上を向くのでなく、肩を落として下を向きやすくなる。そのようなときわたしたちに必要なのは、心を高く上げること、目を上げることです。そのとき、妨げの石が主によって既にわきへ転がされていることに気づくのです。わたしたちが何かをする前に、神の恵みが既に働いているのを見るのです。
聖書は希望について語り、希望を与えます。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛というようにです。その希望の源はこのイエスの死からの復活から来ます。わたしたちの歩みにはこれまでがそうであったように、大小さまざまな石によって、行く手を妨げられています。失敗、病気、災害や事故などによってです。ときに「だれがあの石を転がしてくれるでしょうか」と、半ばあきらめを伴って言わざるをえないようなこともあるに違いありません。それでもいたずらに悲嘆に暮れてしまわないで、目を上げて見ることの大切さが教えられているのです。その石が既に転がされていることに気づくからです。四方から苦しめられることはある。それにもかかわらず行き詰らない。途方に暮れることはある。しかし決して失望しない。確かに困難はこれでもかこれでもかとやって来る。けれども私たちは見捨てられることなく、滅びもしない。主イエスが今日、死の墓からよみがえられ、その重い石を取りのけ、わたしたちに新しい命を与えてくださったのです。イースター、おめでとうございます。(高橋牧師記)

