秘められた真理

 「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」  テモテ書一 3.14-16

 パウロは信頼するテモテに教会をしっかり守るように告げました。「神の家でどのような生活をすべきかを知ってもらいたいのです」。神の家、すなわち教会。それを次のように語っています。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」。ここには教会とは何かが記されています。真理の反対は偽りです。ただ双方は正反対ではありますが、いつもその違いが明確となるわけではありません。今、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)がほぼ毎日話題に上っていまが、その前に世間を騒がせたのは、オウム真理教でした。この集団もまた真理という言葉を使っていました。

 「信心の秘められた真理」とありますように、真理は一面においては秘められています。すべてが明らかではありません。ちょうど北極海に浮かぶ氷山のように、たしかに水面に見える部分はありますが、水面下にあって見えない部分もあります。そのように隠されている面があるのですから、今はまだわたしたちにはすべてが明らかにされていないことに、希望を持ちながらも耐えていかなくてはなりません。

 それでもキリストの教会は真理を柱、土台としています。柱、土台とは一番基本となるものです。今年は特に大きな水害、それに伴う土砂崩れが今のところありません。しかしわたしたちの国では毎年のように起きています。近いところでは熱海の土砂崩れがありました。わたしは毎年のこうした災害を目にするたびに、人間の存在の脆さ、不安定さをも思わずにはいられません。普段何事もないときには、盤石とまではいかないまでも、わりと安定しているように見えますが、いかにそれがもろいものであるかがこうした出来事において如実に現れます。まさにイエスが山上の説教の中で言われた、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」とある通りです(マタイ7.27)。けれどもわたしたちの命の源である教会は、真理の柱と土台で成り立っています。同じように雨が降り、川があふれ、風が吹いて家を襲うことがあっても、それでも決して倒れることはありません。またそうした試練は決して耐えられないようなものではなく、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えられているのです(1コリント10.13)。

 ならば教会の柱となり土台でもある、その真理とは何でしょうか。それは礼拝であり、そこで語られる御言葉による宣教と聖礼典と言えます。それだけではありません。礼拝の中には祈りがあり、賛美があり、信仰告白もあります。この箇所に記されているキリストの賛歌は、現在の「使徒信条」のように、当時の教会で告白されていたと思われます。そこにはキリストの出来事のすべてが語られていて、「使徒信条」と非常に似ていることが分かります。

 わたしたちには現在分からないこと、納得できないことが多くあります。しかし動揺することなく主イエス・キリストを信じる信仰の道をひたすら歩み、その真理に基づいて生活していきたいと願います。今はすべてが明らかになっているわけではありませんが、それでも神の恵みに包まれて生かされているのですから。(高橋牧師記)