共に悩み共に喜ぶ

 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。   コリント書一 12.12-26

 聖書は語ります。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」。「キリストの体」としての教会です。確かにわたしたち一人ひとりの体は、いろいろな部分から成り立っています。足のつま先から頭のてっぺんまでいろいろあり、それぞれ独自の働きをしながら、あわせて相互に関連し合っています。わたしは毎年一回の健康診断を行っています。心臓、肺など15ほどの検査項目があります。わたしたちの体は、そのように多くの部分から成り立っています。

 教会がキリストの体であるという場合、その部分とは教会員一人ひとりであり、そこにはいろいろな働きがあります。体には目があり、耳があり、足があります。当たり前のことですが、目はものを見るという働きである、耳は音を聞くという役割を担っています。ですから目が耳のように音を聞き分けることができないからといって、それを目の欠点とは言いません。足が目と同じようにものを見分けられないからといって、それが足の欠点であると言う者もいないでしょう。 

 「わたしはあの人のように、教会で働けないからダメな信仰者だ」とか、「あの人は教会で役に立っていないのでは」というような自分に対する卑下、また人への批判があったのかもしれません。しかしこのように人を裁いたり、自分を責めたりすることがいかに間違ったことか。わたしたちに与えられている働きは、人と比較するためにあるのではなく、キリストの体の下、それ独自の働きをなし、また互いに補い合うためにあるのです。

 昨日の広島平和式典の中で広島市長が「他人の不幸の上に、自分の幸福を築いてはならない」と述べていましたが、そのように互いに支え合うことによって全体の益になるかどうかが大切なのです。そのために各自は別々の働きでよい、さらには別々でなければならないのです。 

 また聖書は言います。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません」。歯が痛いと、全身に影響を与えます。何か深刻な心配事が生れると、そのことで食欲が落ちるものです。そのように一つの問題は、全体と深く関係しています。

 キリストの体である教会も同じです。各部分は互いに関係しているだけでなく、むしろ弱いところ、苦しんでいる部分があるならば、なおさら全体で支え合おうとするように、教会もまた同様なのです。互いに配慮し、いたわり合おうとするからです。教会の中には多くの高齢者がいます。病気の人々もいます。その人を介護する家族もいます。またさまざまな悩みや困難を抱えている人もいます。そうした人々が孤立することなく、互いに祈り合いながら共に生きていく。まさに「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。苦しみも喜びも共に。それがキリストの体としての教会なのです。(高橋牧師記)